これがBiSH…ダサ…くないっ!

「楽器を持たないパンクバンド」。このキャッチコピーを初めて聞いたとき、率直に「ダサい」と思った。

「BiSH」。名前を耳にしたことはあった。

メンバーではアイナ・ジ・エンドという名前だけは認識していた。様々なアーティストとコラボレーションしていることを知っていたからだが、とはいえそれらの楽曲をちゃんと聴いたことがあったわけではなかった。

 

そしてあれは2019年終盤だったと記憶しているが、テレビ朝日系『アメトーーク』で「BiSHどハマり芸人」と謳い、BiSHファンを公言するお笑い芸人たちがその魅力を紹介する放送があった。私は近年、ほとんどテレビを視聴しなくなっており、バラエティ番組は尚更だったのだが、その放送回はなぜかたまたま視聴したのだ。

と、視聴したものの、多少変わったグループなのだな程度で、さほど関心を持つわけでもなかった。

 

何かを強く勧められると、それ自体が逆効果で、冷静になって気持ちが乗らないということはよくある。

ましてや「こういうの好きでしょ?」なんて決めつけられると、にわかには納得できないことの方が多い。

 

そんな私は当該「BiSHどハマり芸人」の回を観ていて、その感じが発動してしまい、どうも「冷笑側」にまわってしまった。あの番組は「何かに熱中する人間を冷笑する」ということも「笑い」として織り込んでいると思うが、それのことだ。

とはいえ、そこでBiSH本人たちが披露していた楽曲『BiSH -星が瞬く夜に-』の存在だけは記憶した。

 

そこから3、4ヶ月経過した2020年3月頃だっただろうか、日本でもCOVID-19問題がかなり本格化して、自宅にいることが多くなってきた。まぁ、それに加えてそもそも働いていないのだ、時間はある。

 

そんな時期、何となくYouTubeを開いていると、並ぶ動画のサムネイルの中に、avexのチャンネルか何かで全編無料視聴可能なBiSHの2度目の幕張ライブ(その時は2度目かどうかなど知る由も無かった)の動画を発見した。

「ああ、BiSHか、全編無料なんて太っ腹だな」と思い、何となしにクリック、見始めた。

 

数曲観た後に、パソコンの小さい画面ではなく、テレビの大きい画面へ映し変えた。

もっとよく観たかったのだ。

楽曲もメンバーもほとんど知らないのに、観ているとあっという間に時間が過ぎてゆく。

 

「日本におけるアイドル」として考えると少し風変わりな6名の女の子たちが幕張の広い会場のセンターステージで2時間以上出ずっぱり、歌唱力もさることながら、20曲以上歌い踊り、時に激しく、時に奇抜で、時に繊細で、時にポップである。

 

曲調自体は歪んだギターのリフが激しく鳴り続ける、パンクというかメロコア、ミクスチャーロックやグランジっぽい感じが多く、本来の自分好みのものがほとんどで、しかもこのライブは全編生バンドだ。迫力があり、説得力も出てくる。

 

そして、あっという間に時間が過ぎる理由も分かってきた。

それは、楽曲のほとんどは初めて聞くのだけれど、おそらくセットリストにストーリー性を感じるためだ。

また、振付けをはじめとした演出やメンバー各人のファッション性が絶大な視覚効果を生んでおり、それらもそのことに寄与しているのだろう。

 

いわゆる「アイドル」と差別化を図るかのように、彼女らは明らかにステージを主戦場とした「表現者たち」である。

やはり重要なのは、何はなくとも「楽曲」なのであり、そしてそれをいかに表現するか、再現するかなのだということを改めて彼女らは気付かせてくれる。

 

また感じることは、彼女らは「技術に依存していない」、「巧妙な粗さがある」ということだ。

それは歌唱力、身体の使い方など一定の技術があるからこそ可能なのだろう。

 

そのことにより生まれる良い意味での「隙」みたいなものが、大勢のファンにとっては彼女らを支持する、共にあろうとする理由となり、こういったライブで激しくも温かい空間が大きく渦を巻いて展開されているのではないかと思う。

 

「未熟さ」や「隙」なんていうのは日本における「アイドル(特に女性)」の特徴でもあるだろうけれど、多くのそれは「技術に依存しようとする」ことにより発生しているもののように感じる。

その場合の「技術に依存しようとする」感じは単なる「技術披露」を目的化しているだけで、私としては観ていても没入できない。

 

しかし彼女らは逆なのだ。技術に依存しようとしていないからこそ、そこで観ている者たちとの強固な一体感を作り出せるということを、もはや肌感覚で理解しているかのようである。

 

だから彼女らはやはり「アイドル」ではなくこのライブを観る限り、「アイドル性のあるアンチアイドル的アーティスト」だろう。

 

そして、近年、私は「集団のアイドル」のライブを頻繁に観ていたせいか、特定のメンバーが2時間以上出ずっぱりというものに驚いた。

だが忘れていた。だいたいのアーティストはライブ中、出ずっぱりだ。「集団のアイドル」のように、楽曲ごとに異なるメンバーが入れ替わり立ち替わりするライブの方が本来は少数派だ。

 

このライブでは途中に「コント」の時間があるとはいえ、彼女らは基本的にずっと歌いながら踊っているわけである。相当な体力も必要とするだろう。

また、このコントという「余談」を挿み、その後、閑話休題的に再び展開されていく演出はライブ全体にメリハリを生み、面白い。

 

また、私見だが少なくとも「アイドル」に限って言えば、世論はもとより、当のアイドルたち自身も「ルッキズム」に則った評価をする言説が多数だ。

長所を問われれば、「顔面偏差値」だの「スタイルがいい」だの「肌が白い」だのと答える、現代の一般的価値観における見目麗しさなどの「分かりやすさ」だけで評価する傾向に辟易していたところに、「楽曲」と「表現」に極めて重点を置き、それでいて「アイドル性」の高い彼女らの存在は、私にとってセンセーショナルなもの、かつ音楽の価値観の原点に回帰するきっかけとなったのだ。

 

そして、そういったものを全てひっくるめて、私はこのライブを観たことで、本来、表現者として一般的なルッキズムよりも前提とするべき意識や精神を彼女らに感じ、「敬意」を抱いたのである。

 

私の言っている「アイドル」たちが「楽曲」や「表現」を蔑ろにしているわけではないであろうし、その彼ら彼女らも心身をすり減らし、日々努力を重ねているのであろう。

もちろんそれぞれの方針の違いであって、「良し悪し」ではなく個人の「好み」の話である。

 

個人的には「分かりやすさ」や「性的対象物」としての視点での評価だけでは「敬意」を払えないということであり、「敬意」を持てなければどのような条件が備わっていようとも支持できないということだ。

 

 

「楽器を持たないパンクバンド」というキャッチコピーを改めて考えてみた。

私的解釈だが、「パンク」は概念であり、既存のものに囚われないということだ。「バンド」だって楽器を持とうが持つまいが、当事者が「バンド」であるといえば「バンド」なのだ。

 

というかその意味よりも、当初その言葉の雰囲気を軽視したというか、それこそ「BiSHどハマり芸人」を観た時のような冷笑的な考えに陥った過去の自分の浅薄さの象徴として私の中にそのキャッチコピーは刻み込まれたのである。

 

これが「沼」というやつなのだろう。なんか以前からチラチラ見えてて、ある時ちょっと行ってみて片足入れてみたら「あれ、何これ、なんか気持ちいい」って思ってそのまま入っていった感じである。

 

気付いたらamazonで「BiSH」と検索して「じゃあこれも、あ、これも」とポチポチやってしまっていた。