いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― ハシヤスメ・アツコ編 ―

BiSHの中では、見た目としては最も飾り気の無いメンバーと言えるだろうが、そうであるが故に逆に異質にも思えるのが「ハシヤスメ・アツコ」だ。

 

もちろん人それぞれに承認欲求であるとか、お金が欲しいとか、少し口に出すのは憚られるような、「ゲスい」というと言い過ぎであろうが、そういう感情はあるとは思うが、彼女はBiSHのメンバーの中ではそういったことを比較的よく口に出す方だろう。

 

そのこともあり、めがねネタはともかく、個人的に彼女についてはBiSHの中の「影」の部分というか、俗人的な欲望の部分を引き受けているような印象を受けるのだ。

 

それが、いわゆる一定の「キャラクター」に準じているのか、彼女の元々の性格なのかはもちろん分からないが、彼女は組織で言うところの「裏の仕事」というか、「汚れ仕事」というとまた言い過ぎであろうが、そういう役を引き受けることで、他のメンバーのクリエイティビティを強調する効果をもたらしている気がするのだ。

 

ライブ中に必ずあるコントも、自身を「めんどくさい厄介者」として設定付けて展開するのが定番だ。このコントの脚本は彼女が考えているということで、やはりこのグループにおいては、自分自身を槍玉に上げることが最も適切なのだということを理解している故の設定だろう。

 

また、バラエティ番組などに出れば、そういった「めんどくささ」を「イジる」話法に持って行かれがちで(いくらか誇張されているにしても実話なのだろうが)、公的メディアでそれを喧伝すればそれを真に受ける視聴者も少なくない。

 

こういった方針は彼女にとっては本来不本意なもので、運営スタッフやTV側の要請に従っていることから始まっているのかもしれないことだが、実は大変重要なポジションなのだと思う。

 

それは偶然そのようになったのかもしれないし、あるいは意図的な部分もあるのかもしれない。いずれにせよ、一見分かり難いかたちで「バランス」をもたらしているのが彼女なのではないだろうか。

 

本来このような、グループ内で特定の人物にスケープゴート的なポジションを与えて、事を円滑に進めようという方針は、個人的に賛同出来ない。

その役が、例えば権力者、為政者や仕事での上司などなら、ある程度当然とも思えるが、もしもそれが友人や同僚などだとすれば、私なら申し訳なくて仕方がないし、それより下の立場の者に対してその役が付与されているのならば、それはあってはならないことだ。

 

だから、音楽グループのメンバーに過ぎない彼女がグループ内でひとり、そんな役を甘受しているのならば、謝意や敬意が生まれてくるというものだ。

 

まぁ私の買い被りなのかもしれないけれど。

 

 

彼女の生み出す歌詞には、ある物事に対するそこにいる主人公なりの一定の「正解」はあるけれど、その「正解」と現実との乖離に対するやりきれなさのようなものが表現されていると感じられる。

そう考えると、彼女自身の芯の強さというか、頑固さのようなものが感じられるが、一方で本当はもう少し異なる「キャラクター」で世に出ていきたいと考えているのかもしれないという印象もある。

 

そんな彼女のライブでの姿は、歌も踊りも総じて安定しており、かなりオールマイティーにこなすことが出来るメンバーだろう(素人目線ですよ)。

歌唱に関してはグループの中では最も耳馴染みが良いというか、いわゆる歌謡曲が合いそうな印象である。例えば高橋真梨子の楽曲などを歌っているのを聴いてみたい。

とはいえ、個人的に大好きなのは、『GiANT KiLLERS』のような激しい楽曲の開始直後に時折見られる、「清掃員」たちを煽るひときわ長いブレスの雄たけびだ。まだ行くか、まだ行くかと観ているとゾクゾクしてくる。

 

また、モモコグミカンパニーについて、メディア出演時の印象として、良い意味で「TVタレントぽくない」と書いたが、かたや彼女はというと、ひときわ「タレント然」としようとする。つまり、メディアに順応しようという気概を見せる。

 

特に「一般的なメディア対応」に不向きであろうメンバーが多い中においては、彼女のそんな姿勢は評価してもよいだろうが、とはいえ、実際それが上手くこなせるほど器用な方でもないようにも映る。

 

汚れ役を甘受(?)しつつ、TVタレントとしての自身を確立しようとしても、どこか不器用に映る彼女の「可愛げのある俗人」ぽさは(というと少し言葉は悪いが)、奇妙な集団であるBiSHの中ではうまく機能しているように思えるのだ。

 

 

BiSHもキャリアを重ねるごとに、「清掃員」を含めた周囲などからの「アーティストとしての期待値」は高まるばかりだろうと思う。それには本人たちも少なからずプレッシャーを感じたり、ジレンマに陥ったりすることもあるだろう。

 

しかし、ライブや各メディアでの彼女が引き受けた(?)「役」により、BiSHにそのように鬱積されるものにカタルシスがもたらされている部分があるであろうことは忘れてはならないのだ。そしてそれは彼女ら自身だけでなく、「清掃員」や周囲にとっても同様の効果があるのかもしれない。

 

繰り返すが、事の円滑化のためのスケープゴートやガス抜きのような立場を上位者以外に設定することに対しては賛同できない。

 

ただ、彼女がこういった「役」を引き受け、BiSHの中の「俗的」なものを吐き出すことで、それこそ「便通」が良くなり、そのことが現在に至る躍進をもたらしている理由のひとつである可能性を「清掃員」や周囲は決して捨ててはいけないのである。

 

 

――次回はリンリンについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。