いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― リンリン編 ―

誰しも可能ならば、雄弁に自身の思いを他者に伝えたいと思うものだろうから、「無口担当」なんていうのは実のところ「リンリン」自身は不本意なのかもしれないけれど、個人的には、全く皮肉ではなく羨ましい「担当」だ。

文字通り喋らなくていいし、「担当」といっても実際その通りにしなきゃいけないわけでもないし、逆説的に発言に注目させる効果も生むだろうし。

 

でもそう担当付けてしまうと、本来そうでなくともそう振る舞わなくちゃいけないような強迫観念に囚われる可能性も高いだろうから、「肩書き」みたいなものも良かれ悪しかれである。

 

BiSHのメンバーの中でもひときわ特徴的な髪型、メイクやファッションなどで耳目を集めてきた彼女だが、「無口担当」になってしまったら、ひとまず容姿で他のメンバーと差をつける方に流れるのは当然だろう。

 

だから、彼女は結果的にそうなったというか、例えば「目標」であるとか「なりたい自分」みたいなものがあって、それを目指して活動してきているようには私にはあまり思えないのだ。後に書くが、それは決して悪い意味ではない。

 

そんな彼女の生み出す歌詞は内省的で救いを求めるような雰囲気がある。逡巡の中で居場所を探しているような、そんな感じだ。遠くに目線を向けているというよりは、その時その時で足場を探しているような印象を受ける内容だ。

 

アイナ・ジ・エンド同様、リンリンの歌詞もグランジっぽい。もし対比するならば、アイナは外向きだけれど、どこか欝々としていて、リンリンは内向きだけれど欝々とした印象は無く、流れのままに、といった印象だ。

 

基本的に具体的な状況を表す言葉選びなのだが、一般的にはサビなど、楽曲の中で一番強調されるであろう箇所では一転して、何だか曖昧な表現が飛び出してくる傾向が強い。

「とげとげ」、「きも(気持ち悪い)」、「あ゛ぁぁぁぁぁ」、「ファーストキッチンマイライフ」、「ゲロ」等々…最も「核」となる気持ちが発せられるのかと思われる状況になると、それを言語化出来ない、いや、「しない」のだ。

 

歌詞で最も強調すべきであろう部分を具体的でなく曖昧にする、転じて、そのことがまさに「無口」であるということなのではないだろうか。

だから、BiSHの「無口担当」とはメディア出演時などの振る舞いのことではなく、歌詞内容においてであるということなのだろう。

少し強引だが、そういうことにしておこう。

 

ただ、彼女の書く歌詞のような、内省的な逡巡は芸術には不可欠であり、「幸せ」だの「楽しい」だの、ただただ前向きな表現は表面的で薄っぺらく、そして知性も感じない。また、あまりに具体的なだけの表現は野暮ったい。

 

だからこそ彼女の生み出す歌詞は、BiSHの放つ表現が重層的足り得るための一翼を担っていると感じるのだ。

 

また、彼女もおそらく歌と踊りはそれほど得意ではないだろう。

だが、そんな彼女は、少女のような無垢な声とまっすぐな瞳で歌詞を噛みしめるように歌い、そして時折出てくる、「がなり」とシャウト。特に彼女の「がなり」は絶品であり、気持ちを高揚させる。

モモコグミカンパニー同様、「上手すぎない」、でもだからこそ「パンキッシュ」なのだ。

 

そして踊りでは、アイナが生み出す、彼女をフューチャーした前衛的な振付けを見事に再現する。それはおそらくリンリンにしか出来ないことだ。

 

 

極めて私見だけれど、彼女の歌詞からも感じるように、彼女は常に居場所を求めていた。そして手探りでそれを求めて歩を進めていき、その結果、現在の立ち位置を確立した。

 

そして、先にも書いたが、一般的には楽曲で最もその主張を強調しがちなサビで彼女が採用する、一見何だか分からない曖昧な言葉表現から考えても、それは、やはり「目標」や「目的地」であるとか「なりたい自分」とか「夢」など、そういったものを目指して日々活動していたというよりも、どこかにあるかもしれない居場所を流れのままに探して歩を進めた先に、たまたま今の状況があったということなのではないかと思えてくる。

 

最初から「目的地」があるのではなく、歩みを一つひとつ重ねていくことにより結果的にたまたま辿り着いたその場所から過去を振り返った時にはじめて、その過去の様々な物事に後から「意味」付けしていくなんていう構図は「偉人伝」や「伝記」みたいなものの定番である。

 

しかし、現代は先に「夢」や「目標」が無ければいけないかのように吹聴し、強制するかのようにそれらをひとまず決めさせる。そしてその結果ばかりを求め、その時々に行おうとすることに対して、行う前から「意味」付けしようとしてしまいがちである。

 

「そんなことやって何の意味があるんだ」、「そんなもの何の役に立つんだ」、現時点で「意味」が見出せないものには価値を置かない、それが「合理的で賢い」ことだと思ってしまいがちである。

 

しかし、あらゆる物事がこの先どう転ぶかなど誰にも分からない。誰しも生きていれば良くも悪くも不測の事態は起きる。そんな時にそれまで「合理的で賢い」と思っていたことが、大きな弊害や後悔を生む可能性は大いにある。ともすれば命に関わることだってあるかもしれない。

 

別に「夢」や「目標」が先に無くても、そんなものは後付けでどうとでもなる。その時々で自分の心に正直になって歩んでいってみると結果的に「居場所」が見つかったなんてことは往々にしてあることだ。

 

もちろん、「夢」や「目標」があるのは素晴らしいことだし、決してそのことを否定するつもりは無い。

 

しかし、私にとっては、BiSHで見る彼女の存在がそれらを「強制する」ことへのアンチテーゼにも思えてくるのである。

 

 

――次回はアユニ・Dについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。