いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― アユニ・D編 ―  &まとめ

「アユニ・D」の加入当初からの変遷を見ていると、感慨深さと共に、若い「清掃員」などにとっては勇気や刺激が与えられるだろう。

彼女の表現者としての急進的なさまは目を見張るものがあるからだ。

 

それはもちろん、彼女自身の才能によるところもあるのだろうが、活動を通して与えられた環境や周囲からの刺激に対して彼女自身がそれほど拘りを持たずに、それらをまっすぐに正面から受け止め、応えようとしてきたことによるところが大きいのではないだろうか。

 

とはいえ実際、私がリンリンに対して抱いた印象同様、彼女に対しても具体的な「夢」とか「目標」といったものは設定せずに活動してきているのでないかという印象がある。

 

目前のスケジュールに向けての「目標」などはもちろんあるにしても、「○万人の前でライブしたい」とか「○○万枚売りたい」とか、そういったアーティストとしての社会的、商業的な成功としての「目標」や「夢」というよりは、誰かからの期待や求めに応えることに当初から最も価値を置いているように思えるのだ。

 

そんな彼女はグループの活動と並行してソロプロジェクトバンドのPEDROでベースボーカルと全曲作詞、時に作曲も担当するなど、BiSHメンバー随一の多忙さを極めていることは想像に難くなく、日々求められることも多いだろう。アーティストとしてのその先の「夢」みたいなものを考えている暇はもしかしたら無いとも言えるのかもしれない。

 

 

彼女の生み出す歌詞について、BiSHとPEDROで多い共通点としては、歌詞で設定された主人公の意識が次第に変化していくさまが感じられるところだ。

 

その変化のことをおそらく「成長」という言葉で表していいかと思うが、当初は頼りなく自暴自棄的だった主人公の意識が、歌詞の最後には少し光明を見出したかのように変化する様子が多くの歌詞で見て取れる。

決して「答え」を見出したのではなく、少しだけでも前に進めるような意識を手に入れた主人公がそこにはいる。

 

やはり大きな夢や目標というよりは、その時々の自分の足場を確かめ、一歩一歩自分の足で前に進み、出来るだけ精神的な「平静」を得て生きて行くことに価値を置く彼女の意思をそれらの歌詞から想像してしまうのだ。

 

また、モモコグミカンパニーと同じく、視覚的な効果を意識しているであろう歌詞の表記方法が多くみられる。そのこととも関連があるかのように、特にPEDROでその傾向が強いが、彼女の歌詞には彼女による「造語」が頻繁に登場する。

「存在忘形」、「好意行為」、「総意相違」、「自律神経出張中」、「センチメンタル暴動」、「ファンシー虚無主義者」等々…、“ググって”も出てこないであろう「言葉遊び」が散見される。

 

ほとんどの場合、日常的に使用している言葉というのは、先人たちから受け継ぎ、過去の経験の中で習得してきた、いわば「借り物」だ。自分自身の言葉で話していると思っていても、ほとんどがそんな「借り物の組み合わせ」に過ぎない。自分自身で全くのゼロから生み出す「言葉」はほとんど無いと言っていいだろう。

 

「借り物」を組み合わせざるを得ない条件下にあって、なるべく、“ググって”も辞書で調べても出てこない言葉で物事を表現し、かつそれらの視覚効果も意識する彼女も、かなり優れた「アーティスト」だろう。しかしそれはアイナ・ジ・エンドのような“根っから”というよりは「後発的」な感じはする。

 

そしてそれ以前に、「頭の中で描いたものに、既存の言葉を当てはめずに自分なりの名前を付ける」という性質の、彼女の「造語」は、学者などが行うようなかなりアカデミックなものだと言える。

 

「薄汚れた大人たち」はその場を取り繕うために、既存の言葉を用い、その意味を意図的に曲解するなどして重要なことを隠蔽しようとする。

時には、どうせ多くの日本人には分からないだろうからと、英語圏では通じないような英語的なフレーズで、事の本質を煙に巻こうとする日本の為政者もいる。

 

彼女の生み出す「造語」はそんな「大人」たちの心を、尖ったもので突くかのような力を持っているだろう。何しろ私自身がそんな風に突かれた感覚に陥るからそう思うのだ。

 

ただし、BiSHでの彼女の歌詞にはあまり「造語」は出てこない。それは彼女がBiSHとPEDROとで歌詞の「想定読者(聴者)」を変えているからなのではないだろうか。

PEDROの歌詞の場合は当然、基本的に彼女個人の意識を込める。だから彼女にとって分かりやすい「造語」をPEDROでは取り入れられるけれど、BiSHでは他のメンバーも歌うこととなり、「想定読者(聴者)」も変化し、「責任」の範疇も変わる。そういったことでBiSHではあまり「造語」を使用しないのかもしれない。

 

 

彼女は歌唱もかなり特徴的だ。現在では、当初のあどけなさとは異なるポップさと、アイナとは異なる尖鋭さを持っていて、なんだか真似したくなる。真似したくなる歌声というのは非常に貴重で、単なる技術では得られない才能だろう。

踊りも身体の使い方なのだろうか、しなやかで綺麗だ。見とれてしまう。

 

半ば強制的に始めさせられたPEDROでのベースボーカルも、歌いながら弾くというのは決して簡単なことではないはずだが、現在では「鬼の高速ダウンピッキング」で名うてのベーシストのようなバンドマンぶりが板に付いている。

 

色のついていない素朴だった少女が、現在ではあらゆるパフォーマンスが卓越し、時に「色気」すら帯びているように感じる。それは性的なものではなく、「人格的な色気」だ。

 

彼女は、気の毒になるほど「要求されるもの」が多いであろうし、影の努力も相当なものであることは想像に難くない。

パフォーマンス外のメディアなどでは、ポーカーフェイスで少しオドオドした様子を見せることが多い彼女は、そういった労苦の色もほとんど見せず、時折放たれる「末っ子的な可愛らしい邪気」で周囲に喜びを与える。

 

そんな彼女も“しれっと”カリスマティックなのだ。

同じグループのメンバーならば、嫉妬を通り越して、自慢したくなるメンバーだろう。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。

 

 

こうしてBiSHの各メンバーのことを書いてきたのだけれど、人気の理由とか、そんなことは正直全く分からない。まぁ別にそんなことは考えない。

商業的な成功の理由などというのは、おそらく後付けのことが多く、ひとまず、あらゆることが偶然の産物なのだろうと思う。正直、失敗より成功した時の方がその理由がよく分からないものだろう。

 

また、BiSHは「自由」だなんてよく言われる。当のメンバーであるモモコ自身も自著『目を合わせるということ』で「BiSHは自由である」と強調していた。

とはいえ、例えばメンバーが歌詞を書いたとて、そのリリースにあたっての最終的な可否決定の権限は彼女らには無いだろう。と考えれば、自らを自由であると語る彼女らだって、まず「小さな社会」で様々な制約を受けている。

 

特に日本では(海外を知っているわけではないが)、彼女らのように「大人により、寄せ集められた若い芸能グループ」では、その各メンバーへの裁量権はほぼ与えられていないだろう。

しかし、彼女ら自身に全ての裁量権が付与されていようといまいと、結局はそれよりもっと「大きな社会」から制約を受ける。それは倫理的、慣習的、法的、時には理不尽なかたちでの制約だ。

 

ただ、そういった制約のような「不自由」体験があるからこそ、「自由」を求める。

それはもちろん私たちも同様だ。そういった制約の中で逡巡や葛藤は避けては通れない。

 

長渕剛は自身の楽曲『STAY DREAM』で「尽きせぬ自由は がんじがらめの不自由さの中にある」と歌う。

 

BiSHのメンバーも結局は多くの「不自由」の中にあるはずだ。私はモモコの語る「自由」を否定したいわけではない。彼女がそう感じるなら、それは真実だろう。

 

だから重要なのは「自由の性質」なのだ。どのように「自由」なのか、そもそも全員が同条件下に見えても、各人によって「不自由」も「自由」も受け取り方は良くも悪くも様々だ。それらを作り上げているのは全員生身の人間なのだから。

 

BiSHには「生身」を感じる。おそらくそれは、彼女らが生きる上での逡巡や葛藤に対して誠実だからなのではないだろうか。

そして、それはそれまで私が観てきた「大人に寄せ集められた若者たちの芸能グループ」に対してはほとんど感じたことがなかったものだ。

 

BiSHは「生身」ゆえに、そこに「生きている」という生命力を感じる。

「生きる=ライブ」。

ライブにこそ彼女らの真価があるのもそういう理由なのかもしれない。

そして、それを感じ取ることが出来た「清掃員」たちも「生きて」いけるのである。

 

普通の女の子だった彼女らがBiSHとしての活動を通して「ヒーロー(ヒロイン)」になっていく。

「生身」を残したままの「ヒーロー(ヒロイン)」。まさに「改造人間」的である。

やはりBiSHは「仮面ライダー大集合」だ(というのはいささか強引なまとめな気もするが)。

 

 

了。