懐かしくも新しい、BiSHという表現

BiSHが好きになり、YouTubeの関連動画を掘り出した。個人的事情だが何しろ時間はある。

MVや過去の出演番組などなど、多くのBiSH関係者、支持者や「清掃員」のおかげで大量の関連情報に容易にアクセスできる。良くも悪くも便利な時代だ。

再びテレビ朝日系『アメトーーク』の「BiSHどハマり芸人」の回も観てみた。「BiSHという言語」を獲得したいま、BiSHの魅力を伝道しようとする彼らとそれを共有出来たことで、改めて新たな世界へ立ち入ったことを実感した。それと同時にそこで放送された内容はまだまだ表面的なものに過ぎなかったことも分かった。まぁ、「短い時間でのキャッチーな表現」を是とする多くのメディアの性格ならば放送上は表面的にもなるだろう。

 

私がBiSHを好きになったのは2020年になってからなので、現在の彼女らに至るまでの紆余曲折の歴史は短い期間では把握しきれない。だから、いまだに何となく「清掃員」と名乗るに憚られる私ではあるのだが、現時点でのBiSHについての思いのたけを記していきたい欲求は増すばかりとなってしまった。

 

グループ立ち上げ当初などは特にそうだが、楽曲の調子やアレンジについては洋邦問わずトラディショナルなロックナンバーを踏襲していることが多いことは容易にわかる。そういった意味では、聴いていても個人的に「新鮮さ」に欠けている気もするのだが、そこはメンバー自身の魅力によって補われている。

まぁ別に新鮮でなくともよいのだが、これによって「懐かしくも新しい」という非常に受け入れやすく、かつ「傍に置きたい」感覚が立ち上がってくる。

メンバー各人についてなどはいずれ書くとして、ひとまず楽曲については、その歌詞に注目したのだ。

 

楽曲名などを含めて、おそらく過去の名曲などからの引用であろうものが散見される。ともすれば「パクり」なんて言われてしまうかもしれない(何せBiSHのファンクラブ名は「SMELLS LiKE TEEN SPiRiTS」だ)。

 

しかし、例えば学術論文などは出典元を記したうえで、様々な考察を重ねる。もちろん出展元を明かしている限りは「パクり」ではない。むしろ出展元が多いほどその論文の評価は上がる。

それと同様に、出展元=元の楽曲を分かりやすくしていることで作品の方向性が伝わりやすくなるし、なにより偉大な先人たちにより培われて来たロックミュージックの歴史を後世に伝えることを「アイドル性」を用いて達成しようとしたその先に、BiSHという「トラディショナルかつ前衛的(=懐かしくも新しい)」な表現があったのだろう。

だから「パクり」ではなく「オマージュ」、「インスパイア」の類いとなっている…ということにしておこう。

 

改めて歌詞については、他言語詞の直訳のような、いささか難解なものがいくつもある(最近は少なくなっている印象もあるが)。

個人的には難解な方が好きだ。そしてその難解への「正解」はあまり知りたくない。行間を読みたいというか、想像したいのだ。作詞者本人からの精緻な解説も必要としない。

本人が誰かにそれをたずねられて答えるのは、もちろん本人の自由だが、その際もおおよその気持ちぐらいで個人的にはよい。

 

これは作詞に限ったことではない。「芸術作品や表現は世に出した時点で受け取り手のものになる」というのは、多くのアーティストから聞かれる言葉だが、それは受け取り手ごとの多様な解釈によりその作品が世に拡がっていくものだという含意ではないだろうか。

 

もちろん難解でなくともそのことは同様なのだが、難解なほどその解釈の作業は楽しい。しかし一見、シンプルで直接的な表現であっても、その含意は実際のところは分からない。どちらにせよ、分からない前提でいたいのだ。

 

好きなBiSHの楽曲はいくつもあるが、私がまず最初に好きになったのは『My Landscape』だ。

全体を通してシンプルなコード進行の繰り返しという少ない条件の下で、ドラマチックに展開されていく曲調は洋楽のロックナンバー的な印象を受ける。洋楽的だから良いということではないが、ミディアムテンポでも非常にグルーヴ感が生まれているのはそのせいだと思う。

 

で、この歌詞がまた直訳的というか、一見なんのこっちゃ分からない。

山猫?ほっとくとどでかく次第にハローハローハローBAD?食らうといいでもそういかない?終わりです?ハメは外さない?

なんのこっちゃ分からないからワクワクする。

曲調や歌唱、振付けやライブ演出も相まってなおのことワクワクする楽曲なのだ。

 

で、この楽曲はあまり該当しないかと思うが、個人的な印象としてBiSHの歌詞には「PAST」、すなわち「過去」というフレーズが、多いとまでは言わないが、クローズアップされることがたびたびある。

 

BiSHの楽曲の作詞は、これまで所属事務所WACK代表の渡辺淳之介サウンドプロデューサーの松隈ケンタ、またはメンバーによりなされている。

それぞれの楽曲の作詞者は誰なのかは確かに注目したい点ではあるが、とはいえ歌詞の最終決定権者は渡辺だ(松隈も?)。彼が納得しない事にはそれらの楽曲が世に出ることは無いのが現状だろう。

 

それを考えると、何となく彼個人の中に「過去」というものへの悔恨や諦念みたいなものが強く存在していて、そのことが歌詞に反映されているのかもしれないなんて想像する。

 

そうでなくとも「逡巡」が感じ取れる歌詞がほとんどである。彼はただ前向きで明るいだけの歌詞にはそれほど価値は置かないのかもしれない。

 

当初はふざけた演出が多いグループだったようだが、現在となっては渡辺と松隈の両氏が抱く「音楽に対する敬意」にメンバーたちも同意し懸命に呼応しようとしている、そんな構図が根底に構築されていることが感じ取れる。もちろんメンバーたち自身がもとよりその器量を持ち合わせていたからこそそれが可能なのだろう。

 

渡辺は軽薄な印象の態度を取りがちだし、これまで人道にもとるというと言い過ぎだが、そういった方向性の演出もしてきた。

彼の実際の気持ちなど誰にも分からないだろうけれど、ただ、BiSHの楽曲の歌詞に触れているとそんな彼への信頼が少しは芽生えてくる気もするのだ。

という書き方をするのも、総合的には私自身は彼のことをあまり好まないからなのだけれど。

 

それについてはまた後日。