いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― セントチヒロ・チッチ編 ―

BiSHのメンバーは、例えるなら「仮面ライダー大集合」みたいな感じだろうか。そんな風に私には見える。仮面ライダーに詳しいわけではないが、知り得る限りで具体的に例えるとこんな感じだろうか。

 

セントチヒロ・チッチ → 仮面ライダーV3

モモコグミカンパニー → 仮面ライダースーパー1

アイナ・ジ・エンド → 仮面ライダーBLACK RX

ハシヤスメ・アツコ → 仮面ライダーストロンガー

リンリン → 仮面ライダーアマゾン

アユニ・D → 仮面ライダー龍騎

 

…チョイスがオールドスクール

仮面ライダーに詳しいわけではないし、加えて近年のものは全く知識が無いので仕方ない。完全に見た目の雰囲気だ。

 

 

私見だけれど、彼女らは大事なところは助け合いつつ、普段は互いに「“程良く”興味が無い」感じがあって良い。

芸能グループに限らず、人間関係は本来それぐらいがちょうど良いと思うのだが、特にTVメディアは「仲の良さ確認」を頻繁に行ってくる。

 

個人的に最も嫌いなのが、女性アイドルグループに対して多い、「本当は仲悪いんでしょ?」っていう定型アプローチである。

話を展開するためのきっかけであることは分かるが、あれは「女性同士は腹の中では基本的にいがみ合っている」という女性蔑視的思想に基づくものであろう。

 

ところで、アイドルグループが自己紹介する時などに非常によく聞くフレーズとして、「メンバー全員個性がバラバラで、そんな人たちが一緒に活動出来ているのが凄いし魅力です」的なものがある。

これを聞くと毎度思う。まぁそうだろう、みんな生物としては別個体だもの、と。

 

特定の人たちと同じ組織体に所属し、目的や意識、時間などを共有して活動していれば、人となりも分かり合い、仲間意識なども芽生えて、縁故主義的にもなるであろうことは想像に難くない。

まぁ、全くそうでない場合も往々にしてあるだろうが。

 

「人は自分の知っているものを過大評価する」、というのは思想家の内田樹の言葉である。

 

この「知っているものを過大評価する」というのは、そういったグループのメンバー当人たちに限らず、誰しも自分の好きな個人や作品などに対する気持ちを考えた時に実感することなのではないかと思う。

 

自分の仲の良い家族やペット(ペットも家族か)、友人、恋人、または好きな映画、ドラマ、音楽、芸能人、漫画、アニメ等々…それらの「自分が好きで知っているもの」は、それらを知らない他人が自分と同様にそれらを知れば、なぜかその他人もそれらを好きになるんじゃないかと思いがちだ。

 

「こんなに素晴らしいのに…この魅力が分からないなんてセンスが無いな」ぐらいに思ってみたり、逆にそんな好きなものを自分だけで独占したくなったり、あるいは自分の配偶者や恋人のことを好きなあまり、自分以外の周囲からもその配偶者や恋人が好意を寄せられているんじゃないかと“勘違い”してみたり…。

 

とはいえ、自分の愛する人の個性や組織体への「過大評価」や「勘違い」は、自身の存在証明であり、生存の糧でもある。

だから、「知っているものを過大評価する」傾向を非難したいわけではない。それに、そんな傾向はBiSHのメンバー自身においても各メディアで見られる。

 

そして少なくとも現在の私にとっても、おそらく「過大評価」しているであろうもののひとつがBiSHなのだ。

 

というわけでその前提で、いち「清掃員」として、BiSHの各メンバーのことについて記していきたい。

 

――まずはセントチヒロ・チッチから。

 

 

名声を手にするにつれて、社会性を要求されていくのは世の常だと思うが、BiSHとて例外ではない。彼女らは少なくとも現在のWACK所属のグループでは最もそういう立場に置かれた存在だろう。

 

各メディアで見る限り、そんなBiSHのメンバーの中でも、最もその社会性を引き受けている存在なのでないかと感じるのが「セントチヒロ・チッチ」、彼女だ。

 

それが意識的なのか無意識的なのかは分からないし、それを彼女に押し付けるわけではないが、そうである限り彼女の、ひいてはBiSHの社会性や信頼性が担保される気がする。

 

ひと言で彼女を称するとすれば、「組織の規律よりも社会性、倫理性を優先する軍人」みたいな感じだろうか。映画『ヒトラーの忘れ物』の主人公、ラスムスン軍曹のようである、というと言い過ぎかもしれないが。

 

BiSHの歌唱は、特徴的な声質などもありアイナ・ジ・エンドがまず耳目を惹きがちだが、チッチのそれもかなり卓抜したものを感じさせる。むしろ楽曲の土台ともいえるのではないだろうか。

 

素人感覚ではあるが、伸びやかなその歌唱は、例えばゲームなどでラスボスを倒した直後に、荒廃していた大地にブワーッと美しい自然が再生されていくような、そんな風景を想起させる歌声なのだ。少なくとも私にとっては。

 

また彼女がパフォーマンス中に見せる踊りは、どんな振付けであっても、ダンサー的なそれではなく、「武道の達人」のような身体使いなのだ。

まぁ、私に武道の経験は無いので、全く違うのかもしれないけれど。

 

同じグループならば非常に頼りになるボーカリストパフォーマーであり、他のグループならば憧れの対象というか、ともすれば自分も努力すれば彼女のようになれるかもしれないと思わせてくれる存在なのではないだろうか。

しかし、実際はそう簡単にはいかない。才能に加えて陰で努力もしているであろうし、事も無げにやっているように見えて、実は相当な実力者なのだ。

 

また、彼女が生み出す歌詞は聴いた者に救いを与えようとしているかのような印象を受ける。

イヤならイヤと言っていい、悔しいなら悔しいと言っていい、叫びたいなら叫べばいい、私が受け止めてやる。そんな感じだ。

 

彼女に対しては、件の社会性にも通じることだが、「受け止める」印象が個人的には強い。

ライブで彼女のパフォーマンスを観ていると、「清掃員」たちが放つ力を受け止めて、その力を彼女が増幅させ、その場全体へ解き放っているかような印象を受けるのだ。

 

それこそ武道のひとつの合気道のように、相対する対象(=「清掃員」たち)の力を利用してパフォーマンスを展開する。だからこそ目の前にその相手たちがいるライブでこそ彼女の力は最も発揮される。

 

そしてそれらは、生み出す歌詞にも込められているであろう、彼女の根底にある音楽への価値観、信頼や敬意が表れた結果なのだろう。

 

また、彼女の泰然自若とした様子は、「大人」たちの心を見透かしているかような雰囲気を持っている。

そのせいなのか、普通にしていて「顔が怖い」なんて茶化されたりすることもある彼女だが、それは茶化す者の臆病さの表れだろう。

しかしそんな言葉たちも彼女は「うるせーな」と一蹴しつつ、一旦「受け止める」。そして必要に応じてさらっと「流す」。これもどこか「武道的」だ。

 

まぁあんまり酷い言葉は受け止めもしないだろうけれど。というか受け止める必要は無い。彼女に限らずそれこそ右から左へ受け流してしまえそんなものは。

 

武道の本質は、相手を打ち倒すための戦闘能力を高めることではなく、心身を修練し己の生命力を高めることである(極めて請け売りです)。

 

このことは「組織の規律よりも社会性、倫理性を優先する軍人」である彼女と通底するものがあるだろう。少し大げさだが。

 

そんなこんなでリーダー的(実際、ある出来事で“元”リーダーなのだが)な印象の彼女は、牽引とか先導というより、受け止めて、次へのきっかけをドンと置いてくれる感じなのだ。

 

加えて名前の「チッチ」という語感と音感が絶妙だと思う。本人の本名由来のニックネームなのだそうだが、呼びたくなってしまう名前だ。

 

語感音感が可愛らしく絶妙な名前を持ち、「武道的」な彼女は、各メディアでの物事の語り方も落ち着いていて、それは忙しない現代社会へのアンチテーゼにも思えてくる。

 

彼女のことを既に大変な人格者であるかのように書いてしまっているが、「武道」である限り、彼女の修行は際限なく続いていく。いつまでも「発展途上」なのだ。

 

彼女は何だか「カリスマティック」だ。しかもそれとなく「“しれっと”カリスマティック」なのだ。

 

 

――次回はモモコグミカンパニーについて。

 

 

断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。