いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― モモコグミカンパニー編 ―

BiSHのメンバーの中では、最も「TVタレント」ぽくないというか、例えばバラエティ番組などに出演していても、そこでの「原理」に流されないというか、言ってみれば「文化人」のような風体を「モモコグミカンパニー」には感じる。

 

このことが「文化人」的というわけではないだろうが、その際の彼女の言動には、そういう「原理」や視聴者を意識したものを感じない。そのことよりも、共演者とのやり取りや、企画自体をただ楽しんでいるかのように見える。

 

誰が決めたか知らない「バラエティ的原理」みたいなものに順応することが「利口」だなんていう風潮を個人的にはTVに感じているのだが、本来は彼女のように、そんな「原理」よりもそこでの企画を「楽しむ」姿(素振りであっても)を見せることが視聴者を楽しませることに繋がるのではないだろうか。

その「原理」に通じるであろう、やれ「撮れ高」だの「編集のしやすさ」だのといった制作側を慮るような語り口は、たとえそれが「ネタ」であっても、実際は視聴者を置いてきぼりにした行動なのだと思える。

 

そう考えると、そんな「TVタレント」ぽくないと思えるところが、翻って実は本来的な意味でメディアに必要な性質を備えているということなのかもしれない。

そういうこともあってなのか、BiSHのメンバーの誰かがひとりでTVなどメディアに出演するとなると、個人的には最も観たくなるのが彼女の出演する番組だ。

 

そんな印象がある彼女は、BiSHとして楽曲やライブに係る活動時もミュージシャン然とはせず、何となく彼女らを観ている者(多くは「清掃員」)と同じ「目線」に立とうとしているかのように見える。

 

そのことは彼女の生み出す歌詞にも表れているのではないだろうか。彼女の歌詞は多様だが、そういう「目線」が通底しているように感じる。

 

活動当初からそういった意識があったかどうかはもちろん分からないが、BiSHの活動を通して、あらゆる年代、性的趣向、生活環境の人々と同じ「目線」に立とうとしているかのようだ。

 

これは、先に書いた彼女のメディア出演時の印象とも通じるところがある。それは視聴者と同じ「目線」に立とうとしているかのようであるということだ。

 

また、それ自体が彼女のアイディアなのかどうかは分からないが、彼女は楽曲を「聴く」ということだけではなく、その歌詞の表記方法を、並ぶ文字群として「目視」するときのことも意識しているかたちを取っているような印象も受ける。

 

そして、彼女の著書『目を合わせるということ』の、その著書名にもそれらが表れているのかもしれない。

個人的には同著の中では「笑ってできた友達」の項が好きだ。まさに誰かと「目を合わせた時」の情景が浮かび、肩の力が抜けた良い文章だと思う。

 

ちなみに、私がBiSHを好きになったのが2020年に入ってからで、同著を購入したのは12刷のものだった。

重版を重ねているのは素晴らしいことなんだけれど、脱字などが結構あり、まぁ細かい誤りは別にいいんだけれど、192頁2列「延長戦上」は、おそらく「延長線上」の誤植だろう。これはかなり気になった。

12刷でここが修正されてないんかい。彼女のせいではないけれど。

 

話を戻して、BiSHの活動を観ていると、彼女はメンバーが「互いに“程良く”興味が無い」(私見)という中で、その均衡を保つ「バランサー」のようなポジションであるようにも見えてくる。

接する相手に緊張感を与えないであろう雰囲気も持ち、かつ全体のバランスをとる、彼女のような役目を果たす人物は組織においてはかなり重要な存在だろう。

 

また、件の『アメトーーク』では、グループの中では「唯一の人間」なんて評されていたが、同著は彼女自身のそんな人間的な「普通さ」もかなり意識しているものだろう。

 

彼女はおそらく踊りも歌も得意ではない。

しかし、ステージ上でピョンピョン跳ねる姿などは非常に可愛らしく、そこに技術などは関係無い(と思う)。

またテーマが深刻な楽曲での情緒的な振付けなどで見せる表情は何となく「普通さを演じている」かのように私には映る。それはもちろん悪い意味ではなく、それにより、彼女は「清掃員」たちのもとに降りてきて、彼や彼女らと同じ「目線」となることが出来るのだ。それはBiSHにおいては彼女にしか出来ないことではないだろうか。

 

そして、比較するわけではないが、私はBiSHの歌唱の中で彼女の歌声が特に好きだ。彼女の低音気味で飾らない、「上手すぎない」歌声は言ってしまえばグループの中では最も「パンキッシュ」に思える。

「パンクは上手すぎたらパンクではない(いとうせいこう談)」のだ。

 

例えばフランク・シナトラ『マイウェイ』のシド・ヴィシャスによるカバーは、それこそ歌や演奏は「上手くない」が、彼自身をそのまま表現している、歴史に残る名音源である。まず、その企画設定自体が秀逸だ。

 

あらゆる人と同じ「目線」に立とうとし、「普通」を「マイウェイ」にしている彼女にもぜひこの楽曲をカバーしてみて欲しい。

 

 

――次回はアイナ・ジ・エンドについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。