生きるとはアンビバレント(PART12)  ~「生身」を無視する期待の悪弊~

たとえ欅坂46が他の48や坂道と一線を画していて、それが現在の私の琴線に触れるものであっても、やはり秋元康に対する不信感は拭えない。これは矛盾しない。

 

何かへの信仰心がその何かの創設者や支配するものまで全てを信仰するとなると、それは一神教の神に対するそれのようなものである。

 

振り返ると、「アイドル的かわいさ信仰」、「笑顔信仰」、「スクールガール信仰」や「恋愛禁止の慣例」などを否定し、主体性や自律性を求めている自分自身がよく48グループを観て楽しめていたなと思う。

 

というか、楽しみつつも、それに対するカウンター精神が同居していることが私にとって重要なのだろう。

もっと言えば、そんな彼女らの中の誰でもいいから、その構造をぶち破って、「大人」が恐れおののくような状況が発出することを常に期待しているのかもしれない。

 

夢や希望などを謳いつつ、金権的構造の中で競争原理を煽り、少女たちを心身ともに疲弊させていく。

にもかかわらず、各メディアで見せる“総合プロデューサー 秋元康”の彼女らに対するその姿は、「自由にやりなさい。私は味方だよ。」というものであり、それによりそんな少女たちの人心を欺瞞的に掌握し、その構造の中に収斂していくのだ。

 

そして時折それに対するガス抜き的な楽曲や企画、あるいは欅坂46のような存在を発出させバランスをとろうとしているかのように見える。

 

そう、欅坂46を作った当初の目的は「ガス抜き」を担わせるものだったのではないかと思えるのだ。

 

「大人」たちが作る不浄な構造によって噴出され溜まっていく「ガス」、そこに風穴を開けさせる役割を担わせる存在を意図的に作り上げる。

それは、楽曲に込められた「メッセージ」とは裏腹に、所詮は当の彼女ら自身もその「構造」の中に「包摂」される「操り人形」のような状況であるという、やはり矛盾や欺瞞に満ちたものだ。

それがまさに楽曲『サイレントマジョリティー』を知った時の最初の印象である。

 

とはいえ、それを観た人々は、彼女らを通して発せられる「メッセージ」が、少なくとも日本の「アイドル」においては類例のほとんど無かったイデオロギーであったが故、賛否ありつつも魅了されていく。

この結果、この状況をまた「商品化」していく。

 

しかし、そのような「予定」も結果的にうまくはいかなかった。

その原因は一義的なものではないだろうが、その大きなひとつに「集団のアイドル」、あるいは「アイドル」そのものにおそらく不向きだった、稀に見る「天才」がその「予定」に「適応し過ぎ」てしまっていた状況にあったであろうことは無視できない。

その「天才」はまさに、その「構造」をぶち破る存在だった。だからこそ欅坂46は支持されたのだ。ファンは「大人」たちの制御の埒外にいたであろう、その「天才」にことあるごとに期待した。

 

先に、欅坂46はひときわ楽曲に駆動されたとは書いたが、それは、その「天才」の表現者としての「正しい」というか、「理想的」な行動の結果もたらされた状況であろう。

 

ただ、「天才」も生身の人間だ。活動を通してさまざまな事情も生まれてくる。

「天才」を追い込ませた理由のひとつに「期待」があったのならば、周囲やファンによるそれは時に罪深いものなのかもしれない。

 

「構造」云々以前に大前提として忘れてはいけないことは、生身の身体を持つ人間である彼女ら個々人がそこにいるということだ。彼女ら個々人を軽視したり侮ったりしてはいけない。その「構造」の中ではそのことが最も重要なことなのだ。

 

もし、「大人」たちがその彼女らの「生身」を考量に入れなければ、欅坂46もある意味では「成功」だったとの見解もあるのかもしれない。サイテーの見解だが。

 

(それにしても「」(カッコ)が多い…)

 

「構造」や「生身」を考えると、他方、とりあえず48に関しては、選抜総選挙がしばらく開催されていない現在の状況だけでも良いことだと思う。

しかし、その大きな「集金イベント」がないことは運営側には痛手だろうし、それに加えて昨今の情勢により様々なイベントも開催出来ない。現在はあのメンバーの人数の多さと構造は結果的にかなりのリスクとなってしまっているのではないだろうか。

 

あと、私には乃木坂46のことはよく分からない。あの人気も様々な偶然が重なったところによるものが大きいのであろうが、“楽曲ありき”の私にはあまり興味が惹かれない。ほとんど聴いたことがないのにこのように言うのもなんだが。

 

私自身はいわゆるメジャーなものしかその存在を認識していないが、現在は「アイドル」として活動している方々の人数は数えきれず、そのほとんどがまともに運営されず、「大人」による更なる醜悪な搾取構造が蔓延していると聞く(プロインタビュアー吉田豪 談)。

深刻なことだが、秋元康のようなメインストリームの「大人」たちが、「アイドルビジネス」という、「どうやら儲かりそうな感じがする構造」を可視化させてしまったことに、そういったことの大きな原因の一旦があるだろう。

 

秋元康に関してはそういう近年の「前科」が無く(もっと前は知らないが)、欅坂46だけやっていれば、個人的にはもう少しその存在を支持できたかもしれない。

 

とはいえ、そもそも不思議な文化である。日本の「アイドル」とは何なのだろう。

 

あ、一知半解な私にはそんなことを論じられない。不可能だ。

 

しかし、ここでふと思い出したとあるテレビドラマのシーンがあった。

 

PART13へ続く。