生きるとはアンビバレント(PART11)  ~欅坂46とスマイルハラスメント~

欅坂46についてもう少し書くと、彼女らの楽曲のMVでは、メンバー1人が顔面アップのフィックスシーン、いわゆる「リップシンク」と呼ばれるものだが、そこで日本の「アイドル」でありがちな、「私かわいいでしょ?ウフ♡」的な演出が、ごく一部の楽曲を除き基本的にはほとんど無かった。

 

楽曲にもよるが多いパターンとしては、基本的にそこでのメンバーはカメラに対して、真剣、あるいは不敵で挑発的な眼差しを向ける。なかでも平手はそこで、顔がハッキリ確認できないほどに髪を振り乱して表現することが多かった。

最近はどうか知らないが、私の知る限り48の特に初期に、その「私かわいいでしょ?ウフ♡」的リップシンクが多かった印象だ。

それ自体が悪いとは言わないが、特に48のそれが以前から私は好きではなく、48の多くのMVではそれが楽曲の流れを削ぐものになってしまっているように私には見えていた。

 

その流れで言うと、48のMVではAKB48の『UZA』が好きだった。狂気性が面白かった。

また、NMB48で一番好きだったMVは『甘噛み姫』だ。楽曲自体がドラマティックで、それに合わせたMVのリップシンクは自然な感じがした。また衣装のきれいな青のワンピースが印象深い。あれでライブもやればいいのにと思った。

 

 

で、欅坂46対してはそういった演出のせいもあり、誰が言い始めたか「笑わないアイドル」なんていまだに称される。

 

彼女らの多くの楽曲の調子から考えれば、パフォーマンス中にニコニコ笑っていたらおかしいわけだが、例えば各メディアに出演すれば、彼女らは普通に笑う。愛想笑いだってする。そもそも「笑ってはいけない」わけでもない。

 

人は人にレッテルを貼りたがる。

カテゴライズしたがる。

時には自分で自分に対してそのようにしたりもする。

それはその方が分かりやすいからなのだろうか。

芸能人で言えば、レッテルを貼れば「商品」としても「分かりやすい」し、「扱いやすい」だろう。

なぜ分かりやすくしたいのだろうか。

分かり難さが怖いのだろうか。

だとすればなぜそれが怖いのだろうか。

怖いというより相手にレッテルを張ることによりその相手の性質を偏見的に画一化してレッテルを貼った人間が自らの知的負荷を軽減したいのだろうか。

あるいはマウンティングにつなげたいのだろうか。

レッテルを貼る人間の臆病さによるものなのか。

つまりネガティブケイパビリティの低さによるものなのか。

 

…まぁいいや。

 

あと、「アイドル」、特に「女性アイドル」に対する「笑顔がデフォルト」みたいな社会風潮はなんなのだろうか。

いや、「女性アイドル」に限らない。この世は他者に笑顔を求めすぎではないか。特に女性に対してその傾向が強くないか。

私は当人の気持ちを蔑ろにして「とりあえずの笑顔」を求めてくる人間の神経が慮れない。

 

そりゃあ「笑顔」というものは素敵だろう。そりゃあみんな好きだろう。時と場合によるが(結構よるかも)。

でも笑顔になるかどうかなんて本人の自由はずだ。感情表現なのだから、それに準拠すればいいと思う。

 

仮にトラブル対処法をその人の「笑顔」に求めるなんてことがあるとするなら、それはそのトラブルの本質を覆い隠して、トラブル悪化の原因をその人の「笑顔」に帰着させるという悪弊を生みはしないだろうか。

 

 

少なくとも「アイドル」にとっては笑顔も「商品」の一部だ、まぁそれはそうなのかもしれない。

じゃあ仮に彼女らに「笑わない」と設定し強制するならそれも「商品」の一部だ。

 

ということは「笑顔」そのものではなく「社会風潮」や「支配構造」が問題なのか。

 

…このこともまぁとりあえずいいや。

 

 

話を戻すと、欅坂46に関しては、指導者の姿としては秋元康よりも、彼女らの振付けを担当するダンサーのTAKAHIROの存在が大きく、彼は経験や実績も豊富で、その振付けや演出からも見て取れるように、クリエイションに関しても申し分なく、メンバーだけでなくファンからの信頼も非常に厚いであろう。

 

何より、秋元康とは異なり「邪気」のようなものを個人的には感じない。別の言い方をすれば、その才能とのバランスを取るかのように、いわゆる「天然」ぽい印象がある。

 

秋元康とTAKAHIROのそれぞれに対する印象が好対照とも言うべく異なっているというアンバランスさによりバランスがもたらされるという現象。これも「アンビバレント」というべきか。

 

そしてやはり、だ。

 

 

PART12へ続く。