生きるとはアンビバレント(PART13)  ~生きてりゃ大体は「ダサい」~

それは、NHK朝ドラ『あまちゃん』でのとあるシーンである。

共にアイドルになることを夢見ていた、のん(当時 能年玲奈)演じる主人公の天野アキと、橋本愛演じるその親友である足立ユイ。

しかし、とある事情でユイが挫折し、その夢を諦め投げやりになり、ユイはアキとの口論の中で、「アイドル」のことを「ダサい」と称してしまう。それに対してアキは「ダサいけど、楽しいから、(中略)ダサいぐらい何だよ、我慢しろよ!」と答える。

 

そうである。「アイドル」は「ダサい」のだ。

「アイドル」なのだから「大人」の言うことを聞け、笑顔で愛想を振りまけ、お前らは「商品」だ、このようなことを甘受するなど、本来「ダサい」以外のなにものでもない。

分からないけれど、おそらく現実の「アイドル」たち自身も「ダサい」ということは考量に入れているのではないだろうか。

 

そしておそらくファンたちの多くもそうである。「ダサい」ことをしている彼女らを受け入れ、熱中している自分自身の行為も「ダサい」と客観視しているのではないか。

48に関して言えば、例えば金権的と自認していながらも、選抜総選挙や握手会などに多額の私財を投じる愚かさ、「ダサさ」、そんなことはファンたちにも百も承知なのだ。

 

多くの「アイドル」の構造は、先にも書いたが、現代社会の縮図である。

実際の報酬や賃金体系などは置いておいて、関係性だけで言えば、「資本と労働者」、すなわち「使用者の下で、自身の労働力を商品として売り渡している」という状態の「アイドル」たちは、いわゆる「サラリーマン」と同様である。また前時代的な封建制の色の強さも見える。

これは多くのファンの日常的な環境と同様の状況であるはずだ(別に「サラリーマン」が悪いと言っているわけではない)。

 

それではなぜ、そんな見慣れたような光景に熱中するファンたちがいるのか。

 

自分たち同様、時間を拘束され、搾取を甘受している状況の中でもがく「アイドル」たちを観て、共感を得ることがある種のカタルシスとなっているということもあるだろうが、他方で、多くのファンが日常生活では確立出来ない「使用者」、「管理者」への欲求を満たすためであるとも取れる気がする。

 

それは各メディアなどで見せる、秋元康のような「使用者」たちやバラエティ番組で取られる「男目線」による態度を、ファンに限らずそれらを観る人々は無意識的にも模倣し、自分たちも「アイドル」たちに対してそういった態度を取ることが許容されていると「勘違い」しているかのように思えるということだ。

 

もちろんこれらのような、「勘違い」したファンの方が少数派である(と思いたい)。

私自身は少なくとも良識あるファンだ、などと言うつもりは毛頭無いが、やはりファンというにはあるまじき行動を取る者も一定数いることは事実である。

 

そんな「アイドル」たちへの態度の根底には、悪しき伝統として今なお続く「男社会」、「おっさん社会」の現状があり、上記のようにテレビなどの巨大なメディアを通じてその風潮が世間一般に長らく伝搬し、助長されてきた結果のひとつがそれだろう。

 

その対象は「アイドル」に限らず、主にバラエティ番組などで多く観られる、「若い女性は知識が浅薄で世間知らずな、日常的な生活力に欠ける存在」であると印象付け、それにより起こる(起こさせる)多少の失敗を指摘し、「ツッコミ」などと称して嘲笑するということが「面白い」と吹聴するような有りようには辟易する。

特に「女性アイドル」へのSNSの返信やネット配信番組などのコメント欄を見れば、その効果が絶大であることがよく分かる。

 

また、「アイドル」たちは「性的消費物」のような側面も付与されがちである。

まぁ水着だのなんだのでの表現をすれば、そうなるのは当然だろうし、それを「芸術」として見る向きもあるのだろうが、やはりどうしても「男目線」から始まるのである。

 

とりあえず、マンスプレイニングを含めたさまざまな現代社会の縮図を見たければ、「アイドル」はおすすめだ。

 

 

しかし…こんなにダサくて問題が多いのに、アキの言うように総じて「楽しい」のだ。

それにより心が豊かになり、満たされてしまう人々がたくさんいるのだ。

それがたまたま「アイドル」だっただけであり、映画、漫画、ドラマ、アニメ、スポーツ…などなど、それらに熱中することと何ら差は無い。それらに「ダサさ」だってあるだろうし、熱中の対象が複数の場合だってあるし、そこに優劣があるものでもない。

 

やはり「ダサいけど、楽しい。ダサいぐらい我慢しろよ」、『あまちゃん』でのアキのこのセリフは秀逸だと思う。さすがクドカン

 

 

ただ私個人としては、その「楽しさ」は彼女らへの「敬意」が無いと成立しないものだ。

それは、それこそ彼女らの「生身」を感じたときにその状況となる。いや、まず感じようとしないといけないのだ。

さまざまな問題を孕む「包摂」状態であっても、それらを込みで楽曲や方針などを自分なりに解釈したうえで、自身の好みに合致し、「敬意」が立ち上がって来た時に、「アイドル」と呼ばれる存在たちが表現するものを享受するに至る。

 

これらを簡便に言うと、特定の対象に対して、この部分はちょっとどうかと思うが、でも総合すると好きだヤバい楽しい、みたいな、それこそ「アンビバレント」な感じだ。

 

そして先に何度も書いたが、少なくとも私にとっては、日本の多くの「アイドル」の「構造」を考える上で、立ち上がってきてしまうカウンター精神もあるからこそ、そこまでの価値に達する。

この「カウンター精神」に始まるさまざまな問題意識は、私自身の自我を再確認するきっかけともなっているのだ。

 

 

当然、「アイドル」たち自身の実際の認識は各人それぞれだ。ファンたちの考えも各人それぞれだ。

また近年は「アイドル」といっても多種多様で一口には語れない。

「構造」に囚われず、「大人」の言うことを聞いているだけではない、主体的で自律的な「アイドル」もたくさんいるだろう。

アーティスト然としていて日本における従来の「アイドル」とは言えない「アイドル」のような人たちもいる。

 

ともかく、「アイドル」側、ファン側問わず、それぞれがそれぞれの方法で、自律や心身の平静を達成しようとしているに過ぎないのではないだろうか。

繰り返すが、その方法がたまたま「アイドル」だっただけである。度が過ぎる者もたまにいるが、それはまた別の話だ。

 

図らずも結果的に論じてしまっている。想定外だ。

 

もともとは「心が弱っている時にアイドルにハマりやすい」ということが自分自身に当てはまるかどうかという話だった。

弱っているかといわれればそんな気もするし、そうでもない気もする。というか弱っているっぽいこと、それこそ、そんな「ダサさ」を楽しんでいるところもあるのかもしれない。

分かるような分からないような。やっぱり「アンビバレント」ってことで。

 

了。