いち「清掃員」が語る渡辺淳之介という人物

やはり48や坂道グループにおける秋元康の如く、BiSHにとっても同様の人物が存在する。

所属事務所『WACK』の社長、渡辺淳之介だ。

いろいろ総合した結果、個人的には好きではない人物である。

 

メディアにもたびたび出演してきている彼だが、まず『WACK合同オーディション』をもとにして、彼について思うところを記したい。

 

これには毎回、オーディションの候補者たちや、そこに参加する現役のWACK所属アーティストたち同様、渡辺をはじめスタッフたちも泊まり込みで臨んでいる。

 

候補者たちや現役アーティストは事あるごとに振るい落とされてゆき、その様子や食事中、寝る間なども含めて合宿の様子はニコニコ生放送で連日全て生配信されている。

 

全て生配信というだけでも異常だが、このオーディション合宿は言うならば、「渡辺淳之介封建社会」である。候補者の合宿中の審査に係る生殺与奪は全て彼が握っている。彼が絶対君主なのだ。

 

これは古くはテレビ東京系『ASAYAN』や48グループなどに見られる、「大人」が作る「小さな世界」で女性たちに「餌」をぶら下げ競争原理を煽り、そこで繰り広げられる模様を「商品化」して「消費」することを是とするかのような近年の日本のアイドル業界に準ずる構図であり、渡辺もそれを踏襲していることは隠していない。

 

そりゃあ実際のそれぞれの立場を考えれば、ある程度の「封建的」な構造は出来てしまうであろうが、合宿というかたちで作り上げた小さな社会でそれをより強調するかのように、彼は候補者や参加しているWACKメンバーたちを追い込み、疲弊させる。

 

そこで彼は何かと講釈を垂れつつ、候補者への、精神的に追い込むための圧迫面談や、ほぼ強制的なかたちの多大な身体的負荷、それらとバランスを取るためなのかは分からないが、時に「下ネタ」などで悪態をつくなどし、そのオーディション合宿の場を支配してゆき、またそれに取り込まれていく候補者たちの様子を強調する。

それは観ていて基本的に愉快なものではない。

 

しかし、“そういう”オーディション合宿であることは事前に候補者たちには伝えており(何せ毎年行われているものだ)、辞退も候補者に関しては基本的に自由だ。また、追い込む行為も演じているところも多分にある気はするし、追い込む相手も選んでやっているようにも見える。

 

合宿の参加者とスタッフの旅費食費宿泊費は全て事務所の持ち出しであって、もちろん慈善事業ではないし、このような企画を成立させること自体、容易いことではないだろう。

愉快ではない合宿中の候補者たちへのさまざまなアプローチも、エンターテインメント性を持たせるために試行錯誤している結果なのだろうとも想像している。

そもそも芸能界なんて、最も「正解」が無い世界のひとつだ。

彼自身、自分の方針やセンスに懐疑的になることも多々あるだろう。

 

しかし、彼はどこかで語っていた(と思う。記憶が定かではないが)。合宿などで見せるそういった行為によって、自分に批判を集めることで、所属アーティストである彼女らを守る目的もあるのだと。

 

また、彼女らにはユニークな芸名を付け、また年齢を公表させていない。

 

そこで名付ける芸名のユニークさは個人的に好きなのだが、そもそも芸名というものは芸能人のプライベートを守るという意味合いもあるのだなと改めて気付かされる。単なる格好付けではないのだろう。

 

また、年齢を公表させない点は特に賛同したい。

これがどういった方針によるものかは不明だが、そもそも各人の年齢をわざわざ公表する必要は無く、日本は特に女性に対する「若年至上主義」的傾向があると思うが、それに対するアンチテーゼにも思える。

 

ただ、芸能人の本名や実年齢など、個人情報を知ろうとしたり暴こうとする輩はどうしても一定数いる。一体何が楽しいのだろうか。

 

 

話を戻すと、また、彼は所属アーティストである彼女らに対して、自身が抱く思いをちゃんと言葉にするよう促す態度をよく見せたりもする。それと関連してなのか、作詞作曲や振付けなど楽曲制作に彼女らを参加させることが多い。

 

その内容の是非の最終決定権は基本的に彼が持っているだろうし、それらを外部発注した場合と比較した際のコスト面の利点もあるだろうが、彼女らのクリエイティビティを引き出すきっかけとなるその姿勢はファンが支持する理由のひとつとなっているだろう。

 

少なくとも秋元康などとはそういったところが大きく異なる。

もちろん様々な事情など私などが知る由もないが、秋元は現在ではメディアにはほとんど姿を見せず(?)にその存在感だけは維持し続け、態度としては「ものわかりの良い大人」を装ってきた印象だ。

 

そして彼が「総合プロデュース」しているメンバーたちには「やりたいことをやれ」と言いつつ、当人たちの楽曲制作への発言権は全くと言っていいほど認めていない。

「結果的」にそうなっている部分もあるかもしれないが、両者の「いやらしさ」の面で言うと個人的には秋元の方がその印象が強い。

 

方針の違いであり、どちらが正しいなどと言うつもりはない。

しかし、こうして両者を比較して考えてみると渡辺の方に賛同出来る部分が多いことが見えてくる。

 

他にも、渡辺の「優れたアーティストには金持ちであって欲しい」という思いのもと、WACK所属アーティストに対しての報酬設定は非常にクリーンで、給料制ではなく、各アーティストが上げた収益に対するアーティスト側の取り分の設定が、他事務所の同様の女性グループなどと比較するとかなり破格なのだそうだ。

 

こう考えると“そういう”合宿であることも、即戦力を求め、それに応えることが出来た者には相応の見返りを保証していることの示唆であるともとれる。

とはいえ、この合宿の様相を全面的に賛同するわけではないが。

 

 

また、個人的に彼の発言で印象的なものが、彼が業界の師と仰ぐ人物からの教えで、人生は「ギブアンドテイク」ではなく「ギブアンドギブアンドギブ」であり、そうすることで、いずれそれが回り回って自らに帰ってくるのだ、という話をしていたことである。

これはまさにマルセル・モースの『贈与論』で言うところの「反対給付」と同様のことであろう。

 

彼がオーディション合宿などの直接的な実入りが無いであろうことを多大な費用や手間を掛けても行うことも、「自らがそれを得たいならば、まず自らがそれを他者に与えよ」という考えに基づくものなのではないだろうか。

 

そもそも、私は積極的に客前に出てくる裏方が好きではないし、それでいて彼は高圧的でセクシスト、軽薄で人たらしのような語り口と「子ども」のような悪態をつく人物だが、音楽ビジネスに関してのメディアで語る信念などには賛同できることも多いのが実際のところだ。

 

ただ、事務所企画のもと制作されたドキュメンタリー映画『WHO KiLLED IDOL? ‐SiS消滅の詩‐』で見せた彼の様子にはひとまず違和感を禁じ得なかった。

 

2016年の件のオーディション合宿合格者たちで結成された「BiS」に対抗するかたちで、そこの最終選考に漏れた不合格者たちで「SiS」というグループを結成するも、そのSiSお披露目ライブ直後に解散するというエピソードがその主題だ。

 

しかし、その解散理由となったSiSプロデューサーの過去の背任行為が再燃したタイミングや、そもそもSiSの企画は渡辺発案で、過去の背任行為を知っていながらその人物をプロデューサーとして起用したのも渡辺である点などを考えると何かと疑念が生まれる。

 

そして、その背任行為の告白と共に解散したその場を後にする渡辺の口からは「これは映画になるんじゃない?」という発言と、かつそのシーンをわざわざ採用している点、最終的に元SiSメンバーを渡辺が自身のもとに受け入れた点などから、これは果たして単純にこの背任行為者だけが「原因」であったとして完結する作品なのかと懐疑的な印象を受ける。

 

特にエンターテインメント業界のドキュメンタリーは、見せ物として昇華するために脚色をするのが当然であって、全てを真に受けてはならないものであるが、ここで見せる渡辺の態度はそのことを嘲笑っているのか、それならばそれで別に良いと思うし、そもそも真実など実際はどこにあるのかも分からないのだが、どうにも渡辺に対する胡散臭い印象がこの映画により個人的に強まったのは事実だった。

 

また、この映画の中で渡辺自身も頭髪を刈り、「坊主」になることでSiS解散の責任を示すかのような態度を見せたが、彼はそのような前時代的な責任の取り方を是とする感覚を持っているのか、あるいはどうせ頭髪など数ヶ月もすれば元に戻るのだから、パフォーマンスとしてのひとまずの行為に過ぎないのか、あるいはその両方なのか。いずれにせよ、いわゆる「スベって」いないだろうかとは思えた。

 

WACKはその他にもいくつかドキュメンタリー形式の映画を作ってきているが、ともかくいずれも「渡辺淳之介の正当性を強調するような構図」に帰着させているところは、「推して知るべし」な印象だ。

個人的にはなかなか気持ちの悪い部分ではある。

 

また、WACKの社是(?)にもあるように、彼による所属アーティストである女性たちに向けての幼稚な下ネタは日常茶飯事である。

そこで発せられる下ネタの多くは悪質とまでは言えないのかもしれないが、しかしその根底には、男性優位社会での女性の自立には女性自身に「男性的思考」が必要、というような倒錯的論理の含意も感じられる。

演者は女性たちだが、この合宿を見ても明らかなように結局裏で主導しているのは「男」たちである。

「男社会的イデオロギー」の深刻さの問題は簡単には語れない。何せ私の「そこで発せられる下ネタの多くは悪質とまでは言えないのかもしれない」というのも「男目線」の意見である。

 

結局、こうやって彼をきっかけに思考していることも、彼の術中に陥っている証左の気もする。しかし、当の彼にはそんな意識も無く、その場その場の対応で結果的にそうなっているのだけなのかもしれないし、あるいはその両方であるというのが本当のところかもしれない。

 

 

ひとまず、秋元も同様だが渡辺が天才なのは間違いないだろう。

とはいえ、いかに成果を出そうとも、彼ら個々人だけが優れているのではなく、さまざまなタイミングが偶然折り重なった結果であり、おそらくほとんどのことは「機運」なのだ。

 

その「機運」から生まれ出る楽曲やライブはもちろんのことだが、合宿や映画などもこうやってブツクサ言いながら、結局私は「楽しんで」いるのだ。

 

本来、女性が追い込まれている姿を見て、「楽しむ」などとは、ろくでもないし語弊もある。

そうではなく、その意味は、特に(アイドル)グループとその指導者との関係性を考えた時、個人的には、指導者やそれを含めた社会に対するカウンター精神が私には欠かせなく、ほとんどの場合どうしてもそれは起きてしまうものなのであり、合宿や映画などについてのここでの「楽しむ」は、そういったカウンター精神をもとに巡らせる考えに価値を置いている、ということだ。

 

 

あと当初書いた、総合して彼のことが好きではない最も大きな理由というのは、おそらく彼の話し方と、ちょっと胡散臭いあの笑顔が、「普段は上位者に阿り、そして自身がトラブルを起こしても責任回避しようとする私の嫌いな知人」にそっくりだからだと思う。

まぁ、結局かなり個人的な事情だ。