生きるとはアンビバレント(PART6)  ~NMB48の功罪~

『ワロタピーポー』は須藤凜々花卒業後最初にリリースされたが、これは見えないところから石を投げるが如くにSNS等で匿名での誹謗中傷を行い笑う者を「ワロタピーポー」と称して歌詞が展開される。

 

「どこの誰か名前隠して騒げ!」

「人の群れに紛れ石を投げろ!」

 

など、「ワロタピーポー」を煽るような内容によって、逆説的にそれらの者たちの愚鈍さ、悪辣さをこの楽曲は表現しているのだと私は思っている。そしてそれはサビ最後の

 

「何で生きてるのか教えてくれ!」

 

の1行でそのことが強く打ち出されていると思う。「中央」など飛び越えて社会的なテーマが打ち出されたのだと私は感じたのだ。

 

おそらく、須藤凜々花の存在がこの楽曲誕生のきっかけになっているだろう。彼女は48グループ全体に新たな風を送り込んだ存在だったと思う。秋元康も彼女に対する思い入れはあったはずだ。彼女のニーチェへの想いについてはさておき、私も彼女のファンの1人だ。

彼女は何も悪いことはしていない。「慣例」から少しだけはみ出したに過ぎない。

ファンだから言うのではない。彼女はこの世に生きる者の権利を行使しただけだ。

 

少しばかりはみ出した程度のことを指弾することは、それをした者自身が自ら住みにくい世の中を作り上げていることになりはしないだろうか。

 

この「慣例」を生みだした秋元康自身(世の殆どの人がそういう認識のはずだ)は、48グループメンバーのスキャンダルが起きたとき、少なくとも表向きは当事者メンバーを責める態度を見せはしないし、「恋愛禁止」はあくまで「慣例」であって、契約上で明文化されているわけではないという。

 

まぁそりゃそうだ。生理現象みたいなものを禁止するなんて虐待に近い、というのは言い過ぎかもしれないが、彼自身は「恋愛禁止」の件をメディアに訊ねられると、何かよく解せない理由を言う。「禁止」に実際にはしていないみたいなことも言う。

しかし、このくだらない「慣例」により、実際様々なトラブルや悪影響が起きているのに、彼はやはりほとんど「知らんふり」だ。少なくともそう見える。やはり信用出来ない。

 

 

NMB48のことに戻るが、この『ワロタピーポー』の次にリリースされた『欲望者』という楽曲、これがどうも支持出来ない。

 

この楽曲の彼女らのパフォーマンスは良い。問題は歌詞だ。

文字通り「欲望」をテーマにしているのだが、「欲望」なんていう曖昧なものに対する、ほぼ全編に渡っての強い言葉の「断定口調」であるせいか、どうもピンと来ない。というかつまらない。

物事の概念など、曖昧なものに対する芸術表現には逡巡や葛藤が込められていないと個人的に価値を感じないのだが、それがほとんど無いように感じるのだ。

行間を読めばそれを読めないこともないが、私の拙い理解ではやはりどうもピンと来ない。正直ガッカリしたのだ。

 

そして前々回書いたように、その楽曲が世に出て3,4ヶ月後にリリースされた欅坂46の『アンビバレント』が素晴らしかった。そうすると、「秋元康NMBには手を抜いている」という思いが立ち上がってきた。

勝手な想像だが、秋元康は『ワロタピーポー』より後のNMB48の楽曲の歌詞はほとんど惰性で書いているのではないだろうか。

 

 

また、これらのことと共に、NMB48吉本興業系列の芸能事務所であるためだろうが、近年は「維新系」の政党と仕事上で絡むことが多くなってきたことが私の中では大きな問題となってきた。

 

これらの政党は行政運営を市場原理で考える新自由主義者の巣窟であり、野党でありながら自民党とも近く、緊縮財政、弱者切り捨てが基本姿勢である。私はそんな政党を一切支持出来ない。

 

以前、関西のどこかの地方選挙で公認だか応援だかは分からないが、維新系の人間が立候補した際に、NMB48卒業生の小笠原茉由高野祐衣がその立候補者の街頭演説の場か何かで、2人がそれぞれマイクを握って応援コメントを発していたその姿をテレビで見た時、私は暗澹たる気持ちになった。あれは彼女らの意志であの場に立っていたのだろうか…。

 

少なくともメディアの前では、これからも彼女らは立場上、これらの政党に懇意的な態度を示すことを余儀なくされるだろう。彼女ら個々人が本当にこれらの政党を支持するなら、それは彼女らの自由であるが、「大人」の都合でその立場に置かれているなら、それは見ていて非常に辛いし気持ちが悪い。

 

 

前回私は、アーティストは「作品ありき」と言ったが、やはりそれよりも前段階のイデオロギーの相容れなさが、私のそのアーティストへの興味を減退させるための一役を買うようだ。

本来、それらのことは「別腹」として切り離すべきなのだろうか。いやしかしどうにもモヤモヤが治まらない。

 

ということで、楽曲への印象と、彼女らの置かれた政治的立場により、私は彼女らの活動への一切の興味を失った。

 

 

PART7へ続く。