空しい「バラエティ番組」

テレビ、特にバラエティ番組がつまらない。もちろん全ての番組を観ているわけではない。

そもそも近年は一部を除きテレビ番組自体ほとんど観なくなった。

 

その理由を考え思い当たったのはまず、「定式化」してしまい、つまらないということだ。もっと言えば、その「定式」をいかに順守出来るか、あるいはどのように“出来ないか”ということの競い合いをするという「定式」である。

 

お笑いのボケの「方法」、ツッコミの「方法」、いわゆる食レポの「方法」などなど、はたまたそれを「学ぶ」だのなんだの。

そこで、こういう場合はこうするんだ、こう返答するんだ、これが「正解」だ、俳優として、ミュージシャンとして、お笑い芸人として、アイドルとして、「バラエティ番組的」に「正解」、「100点」、あるいは「大きく不正解」や「0点」であっても「バラエティ番組的」には「正解」だ、等々、本来は数値化出来ないものに「点数」というかたちでそれを求める。

 

また、お前にとっての「1番」は何だだの、A/B、YES/NO、賛成/反対、敵/味方、善/悪などでお前はどっちだだのと二者択一を迫るなどの語り口もいわゆる「バラエティ番組」ではよく散見される。

 

バラエティはvariety、つまり「多様性」ということである。果たしてこれらに「多様性」があると言えるだろうか。

 

そんな中でさらに、いわゆる「噛まない」、口ごもらない、短い時間でクリアカットに発言出来るなど、そういったことが「優れている」とされ、それに及ばない「テレビ的能力」の低い者や、あるいは弱い立場の者に対するツッコミと称したマウンティング、嘲笑、恫喝。

また、自らの無知や認識不足を覆い隠す目的の冷笑、虚無。

加えて、跋扈する「先輩後輩原理主義者」。「先輩」というだけで「無条件に敬え」的言説。

 

そして、芸能人たち(特に新人?)への「特技披露」の要求。それは、お前たちは「しゃべり」が面白くないのだから、「特技」でもやって間を埋めろと言わんばかりであるし、要求される立場の芸能人たちにも「特技」により「仕事=お金」がもらえるからと無理矢理に「特技」を作ろうとする傾向が見られることが多い。

 

以前、某アイドルグループのメンバーのひとりが、アイドルになる以前より落語が趣味なのだという発言をした時に、先輩メンバー(落語の知識無し)がそれを聞くや否や「じゃあ落語家を目指したら?」と答えたやり取りをどこかのメディアで観たことがあった。

 

この先輩メンバーに対しては、10代半ばにして、趣味については「お金」に変えるよう行動することが「利口」なのだと考えているように思えた。

 

落語の魅力を訊ねるなど知見を深めるのではなく、第一に落語家になることを提案する、つまり落語家という立場を確立することで、その方面からの利益が望めやすい、すなわちそれは「特技」は「お金」に変えるものだという発想に基づくものではないだろうかということだ。

 

もちろん、この落語好きのメンバー本人が落語関係の仕事を将来したいと思うことは自由である。

ただ、この先輩メンバーの発言から、それが落語に興味が無いが故のものであったとしても、なにかある種の芸能界の病みたいなものをその時に感じたのだ。

それは「ただ好きなだけ」ではダメで、「特技」に昇華しないと意味がないという強迫観念ではないだろうか。

もしかすると、それは芸能界に限らないことなのかもしれない。

 

多くのテレビメディアは、こういった「日本の(海外を知っているわけではないが)テレビバラエティ的原理」が、「合理的で面白く、正しく利口である」ことかのように吹聴してきた。

 

また、とりわけ若い女性アイドルなどに対しては、「その原理を強要するさま」自体が「面白い」のだと言わんばかりのアプローチも多い。このことは日本の若い女性に対する蔑視性を助長しているように感じる。

 

そして多くの視聴者もそれらを真に受け、同様の価値観を共有し、その視聴者たちはテレビに対してだけでなく、自身の日常生活や仕事などにもその「原理」を導入しだすのだ。

 

そんな「原理」を強要する者の多くは、番組側、視聴者側ともに、権力者やスポンサーなどの「社会的上位者至上主義者」であり、それらに忖度するのが大好きだ。というより、そのような態度を取る方が知的負荷の軽減が出来て「楽」なのであろう。番組側や芸能人にとっては、あわよくば、「お金」にも繋がる。

 

ただし、NHKの場合のスポンサーは、税金然とした受信料を支払っている「国民」のはずだ。その「主義者」たちにその意識はどれほどあるのだろうか。

 

もはや日本のバラエティ番組の多くは「多様性」の皮を被った「定式的で不寛容で女性蔑視的な金権的権威主義」なものに見える。

 

それでいてこの「偽の多様性」は、「夢」や「希望」や「絆」を語りがちだ。こんなものを信頼しているとしたら「思考停止」である。薄っぺらくて辟易とする。

 

確かに、何事も「定式化」出来れば、複雑に考えずに済んで生きやすいかもしれない。

また、「噛まず」に、端的に、流暢に話が出来ることは素晴らしいことだし、それが必要だという職業もいくつもあるだろう。

ある程度の金銭的合理性を勘定に入れないと、現代の都市生活を営むことが難しいことも確かだ。

 

しかし、本来ほとんどの物事は「定式化」が出来るほど単純ではないし、誰かに気持ちを伝えるときに最も重要なのはその内容のはずだ。そのためには上手く話せないことだってある。

 

また、金銭的合理性を重要視し過ぎて、「お金」への万能感、全能感により資本主義の傀儡のようになると、本質を見失う。「お金」は本来、サービスを交換するための流動価値しか持たないのだ。

 

そして、視聴者の多くは賃労働者であり、資本などから搾取される側なのにもかかわらず、どこか「使用者目線」、「管理者目線」となっている場合が多い気がする。

その結果、何か起きたときに視聴者の多くが非難するのは芸能人や著名人の個々人に対してとなる傾向にある。

それが特定の企業に対しての場合もあるが、なぜかその企業の規模が大きくなるほど、非難の声は小さくなっていくように感じる。

その対象が、国に対してとなるとさらにその声は聞こえてこないことが多い。

 

そもそも番組制作をはじめとした多くのテレビ局自身がそういった態度であり、先に書いたように視聴者側がその態度を「正しい」と真に受けた結果、そのようなことが起きていることではないだろうか。

 

それを裏付けるように、多くの視聴者はテレビ局のスポンサー(資本)への態度などを非常に理解し慮る。

日常的には資本に搾取されていることを甘受しつつ、視聴者としては個人に対して資本側のような「使用者目線」や「管理者目線」を持ち、何か事が起これば資本に阿る。

なんだかフラフラである。

 

さらに国に対しての非難はもはやタブーのような空気を多くの番組は作り出している。そのことも多くの視聴者は疑問に思わない。

スポンサーという観点からすれば、むしろ国のスポンサーは我々国民である。国のおかしな制度や態度、為政者の不正などはバラエティ番組でも嘲笑してやればいいのである。

 

日本は主権在民の国なのだから、個人を責めることよりもむしろ、その背景にあるもっと大きいものや自らの環境を作り上げている制度や社会に対して声を挙げる権利やその意味をこそ、視聴者やテレビ局は重要視するべきだ。そしてどちらかの態度が変われば、もう一方も変わるはずだ。

 

こう考えると、視聴者の意識を変えるには、やはり情報を発信しているテレビ局をはじめとした多くのメディア側がまずもって変わることが、民主制が蔑ろにされても、それが有耶無耶になるような事態を防ぐ近道であろう。

 

そしてバラエティ番組は、楽しさを演出することが主題であるにもかかわらず、そもそも出演している芸能人たち自身が本当に楽しんでいるのだろうかと感じるときも多々ある。

 

ただ、そこは芸能人たちも人間である。そうでなくてもそのように見せるのが仕事なのだろう。何かと特別視される芸能人と言えども、きっと「原理」や「慣例」や「抑圧」などの中でなんとか立ち回ろうとしているのだ。

 

 

このように書いてきたが、もちろんバラエティ番組に限ったことではない。報道番組や情報番組なども同様である。むしろそれらの方がもっと直接的に各情報にアクセスするので、視聴者への影響力は大きいかもしれない。

 

そして、私とて好きなテレビ番組はある。NHK Eテレの番組や、バラエティ番組ではないが特定のドラマ(近年は野木亜紀子脚本の作品は欠かさず観ている)など、良い番組だってたくさんある。

 

 

たまに観る機会があるだけだし、私自身にバイアスが掛かっているせいもあるかもしれないが、それにしてもテレビ番組としては最も観やすいはずの、「バラエティ番組」の多くがどうにもリズムや空気感が気持ち悪く、空しく楽しくないのだ。

 

マウンティング、嘲笑、恫喝するなら下位者へよりも、バカな上位者への方が遥かに面白い。

むしろあらゆる上位者は下位者から突き上げられることが使命であると思う。それが嫌なら、上位者はその立場を放棄すればいい。

 

そういったことに基づいたバラエティ番組ならばそんな空しさも解消されるだろうが、まぁそれでなくても、ひとまず先輩だの後輩だの関係無く、自由闊達さとクリエイティビティを持った番組が作られることをまずもって期待したい。