生きるとはアンビバレント(PART4)  ~欅坂46で揺れる秋元康への感情…からのNMB48~

制作者への不信感情とその人物が生み出す作品に対する評価は別物と考えざるを得ないときがある。

私が秋元康に対してそれを感じたのは2018年にリリースされた欅坂46の『アンビバレント』という楽曲についてだった。

まず心理学用語であるこの『アンビバレント』というタイトル、極めて乏しい個人的な経験上、人文系の著書以外で触れたことのない言葉だった。その意味として楽曲中では「二律背反」と表されているが、私は「両義性」という言葉の方に馴染みがある。まぁ同じなんだけれど。

 

「孤独なまま生きて行きたい だけど1人じゃ生きられない」

「ちゃんとしていなくちゃ愛せない ちゃんとしすぎてても愛せない」

「1人になりたいなりたくない」

 

楽曲中でこのように表現される歌詞は、逡巡や不確実性などのほとんどの人間が等しく持っているであろう「正解の無さ」への苛立ちが表されている、はず。

人間が物事を「単純化」したがる傾向にあるのは、この苛立ちのせいではないだろうか。

「単純化」することで知的な負荷から逃れたいからなのかどうかは分からないが、この世のあらゆる物事は「複雑」であり、「正解」など無いことをまず受け入れないと、それらの本質が見えなくなってしまうだろう。

短期的には「正解」に見えても、中長期的にはどうか分からないし、その逆もまた然りであることも無数にある。こう考え出すと、止まらなくなってしまうのだが、とにかくこういう歌詞テーマは少なくとも日本の楽曲ではありそうでほとんど無かったのではないだろうか。私が知らないだけだろうが。

 

加えて、この楽曲のメロディ、編曲、振付け、衣装、MVの演出など、私は衝撃を受けた。当時はメンバーでは平手友梨奈だけを何となく認識していた程度だったのだが、MVを観て、この楽曲に激しく引き込まれたのは確かだった。

 

とはいえ、ここまで言っておいて、欅坂46自体に興味を持つということはこの時点ではまだなかった。というのも、このグループに対してはデビュー楽曲『サイレントマジョリティー』から感じたイメージが拭えなかったからだ。

 

「君は君らしく生きていく自由があるんだ 大人たちに支配されるな」

「選べることが大事なんだ 人に任せるな」

 

など、確かに強いメッセージだし、日本における「アイドル」が表現するものとしては異質であった。

しかし、彼女ら個々人はグループのメンバーとして「大人」に管理され「支配」されているだろうし、「大人」も彼女らを「支配」することが前提だろう、おそらく少なくとも当時は。

 

そもそも「サイレントマジョリティー」なんて言葉を採用しているあたりもしらじらしい。

「ここの大人」たちは、例えばメンバーに恋愛スキャンダルがあったときなどに、その当事者のメンバーにはメディア向けには箝口令を敷く傾向があるようだ。そもそも恋愛など禁止するものではないが、それに限らず当事者への言論統制など「支配」そのものだ。なにが「サイレントマジョリティー」だ。笑わせる。

 

まぁこんなことは欅坂46に関してはありがちな評だが、私もその例外ではなく、このグループとこの楽曲、合わせると「信用ならない大人たちに支配された若者たち」により、その他の若者たちを扇動するかのような構図、と見えていた。ポピュリズムとまでは言わないが、釈然としないアジテーション、これは「矛盾」や「欺瞞」の類だ。それこそ「アンビバレント」とは異なる。

 

このイメージが強かったため、楽曲『アンビバレント』に惹かれた時点でも、そのグループ自体に惹かれることはなかったのだ。

 

ただ、信用ならない秋元康が表現するものに魅了されたのは事実だった。

こいつはいけ好かないけど、こいつのこれに関しては好き。まさに「アンビバレント」だ。もしもこれが彼の計算なら空恐ろしい。それは無いかもしれないが、欅坂46の楽曲の多くが48、坂道グループ全体を通しても異質なのは間違いないだろう

 

また、この楽曲『アンビバレント』は、その少し(?)前にリリースされた、NMB48の『欲望者』に対する私の虚脱感へのカウンターでもあった。

秋元康、やれば出来るんやん。これはNMBには手ぇ抜いとるな」というのが私のその時の印象だ。

 

実際、私はAKB48よりもNMB48が好きだった。

 

 

PART5へ続く。