生きるとはアンビバレント(PART3)  ~続・今さら始める48グループ考~

秋元康のことが好きではない、というか信用出来ない。

「管理している大人たちの合理性」に振り回される若者たちの感情の起伏を見せることを「商品化」する構造を作り上げた者たちの中心にして、「鶴の一声」を持っているのが彼だろう。

 

しかし、その構造に懐疑的になりながらも、やはり見せ物として「消費」している自分自身はいた。

そのように懐疑的な意識が同居していることを認識することで、少なくとも私自身は理性的であるつもりでもあったのであろう。握手会や選抜総選挙に対する否定はおそらくその一環だ。

 

ところで私は、アーティストには、作品やパフォーマンスへの意識が最優先であって欲しいと思っている。

しかし48グループのように、“とりあえず”定期的にシングルをリリースし、都度握手会を行い、時期ごとに総選挙やじゃんけん大会などのイベント開催…こういったサイクルのような「大きな枠組みや体制をパッケージ化」する中では、実際は個別の楽曲などについてはさほど重要視されていないのではないだろうか、という思いに私は次第に駆られるようになっていった。

 

もちろん彼女らやその制作陣がそれらのことに手を抜いているなどとは決して思わない。

日々、大変な時間や労力を掛けている事業であろうことは想像出来る。

 

ただ、契約云々とか業界の慣例とか諸々事情はあるのだろうが、ほぼ定期的に楽曲がリリースされるこのサイクルだと、どうしても個々の楽曲に対する熱や意識が彼女らから薄れてしまうのではないだろうか。

 

加えて、彼女らは毎度、楽曲ごとに参加するメンバーを数十名の中から、多くて20人前後を選抜するという目先の目標を巧みに与えられ、小さな世界の過当競争に終始させられている。こんな状況なら尚更、一つひとつの楽曲に対する彼女らの熱や意識は期待できない。

 

こういった、自身らの楽曲への理解や敬意を蔑ろにしてしまう意識を醸成させているように見える構造がいつまでも変わらないならば、やはり観ている私自身の気持ちも次第に冷め、彼女ら自身への敬意も持てなくなってしまう。

 

 

で、秋元康についてである。

現在では48や坂道などの数十人×10以上のグループが存在する中で、「総合プロデューサー」を名乗る1人の人間がこれ全てを包括的に把握するのは不可能だということは想像に難くない。スタッフ人数だって膨大だろう。それらが国内外各地に点在している。そりゃあトラブル、スキャンダルはいくつも起こるだろう。それは避けられない。

 

しかし、それらが起きた時の「総合プロデューサー」である彼の公の対応は、基本的に「自分が与り知らない現場のせい」というスタンスだ。

幹部スタッフのスキャンダル、欅坂46ナチスの軍服を模した衣装を採用しようとした時やNGT48の事件など、トラブルの都度それを感じる。

 

繰り返しになるが、確かにこれほど多くの各グループの活動の決定全てに彼が関わっているとは考えにくい。関連会社だっていくつもある。

 

ただ、そのようにAKB48という一つの「ビジネスフォーマット」が軌道に乗るにつれて、国内外各地で類似のグループを多く作っていった理由の1つには、先に書いたように、彼がその全把握や対応は非常に困難だと見ている者たちに想像させることがあったのではないだろうか。

そのことにより、トラブル発生時の彼の責任を減じる目的があったのではないかということだ。

もしそうならば、かなり狡猾である。

 

そのように、彼については多くの権益を得つつ、内部では何かと免責されるような構造が結果的にでも作られているように見えるのだ。

 

そりゃあ各グループの歌詞は全て彼が書いている(らしい)し、過去含めてその業界では日本有数の実績を持つ人間だろう。

しかし、それらや内部事情がどうであろうと、少なくとも48、坂道グループのあらゆる活動のスタッフ表記の筆頭に毎度「総合プロデューサー 秋元康」と冠しているのだから、社会的に問題のあることが起きたときなどは「一応コメントはするけど知らねえよ感」を外部に与えるような対応ではなく、もっと責任者然とした態度を見せるべきじゃないだろうか。

 

私にはこのことが「いかに権益と自己免責を両立させるかが賢い大人の態度なのである」という含意にも感じる。それは私が一番信用出来ない「大人」の典型なのである。

 

信用出来ない「大人」たちが、次第にアーティストへの敬意を削いでいく。

その状況に辟易としていた。

 

しかし、だ。

 

PART4へ続く。