生きるとはアンビバレント(PART2)  ~今さら始める48グループ考~

48グループの金権性への訝しさの他、まずこの「握手会」については、私はメンバー本人たちに面と向かって会いたいとは思わないので、参加する気にはなれない。

実際にそれに参加したことが無いので、メディアなどで目にする限りでの想像によるものであるが、この特に48グループの「握手会」というものに対しては、メンバー間の差により可視化されるもの、されないもの全てにネガティブな印象を私は抱いてしまうのだ。

 

というか、おそらくああいう風に、制限時間中ずっと手を握り続けられていたりなんかすると、誰でもとりあえず好きになる気がする。なんせ私の場合は自意識が過剰だし。

それは、少なくとも私が持つ本来的な芸能人に対する感覚とはかけ離れてしまっている。悪い意味で。

 

そして「選抜総選挙」に関しては、その結果への興味は持っていたが、実際、回を重ねるにつれてそれに臨むメンバーたちの気持ちに対して思いを馳せることが出来なくなっていった。

 

まず、選ばれるにせよ、そうでないにせよ、そこでのメンバーたちの涙の意味が分からない。

嬉しい?悔しい?ファンがあのメンバーよりも自分に私財を投じてくれた?投じてくれなかった?満たされる、満たされない承認欲求?(承認欲求についてはこんなものを公開している私も人のことは言えないのだろうけれど)

 

そりゃ選ばれれば嬉しいのは分かる。メンバーそれぞれに想いがあるのも分かる。当事者にしか分からない。それもそうだろう。

しかし、こんなにも「見ていて気持ちが冷める涙」は私にとって他に類例が無いのだ。

 

また、そこでは指原莉乃が何連覇かしていたが、彼女の魅力についての感じ方は人それぞれだろうし、一定の支持を得る要素は確かにあるのだろうが、回を追う毎に選挙そのものへの総投票数が多くなっていく中でも、彼女への得票数が寡占的に肥大化していくさまは気持ちが悪かった。

 

いわゆる「太客」の存在は知らないが、これは、人気そのものというよりも「勝ち馬」に投票することで、投票者自身が「勝った気」になるという優越感に駆動されたファンが多かった結果ではないだろうか。知らんけど。

 

あと、個人的に彼女について印象的なことは、2016年開催の『フジロックフェスティバル』でのASIAN KUNG-FU GENERATION後藤正文のステージ上での発言をきっかけとした、ミュージシャンの「政治的発言」の是非の話題について、フジテレビ系『ワイドナショー』でそれを取り上げた当時の彼女のコメントだ。

彼女はその際、「ステージ上での政治的な発言は冷める」といったような発言をしていた。

(正直、前後の文脈も含めて正確には覚えていない。しかし大意は間違っていないはず。でも、もし間違っていたら申し訳ない。改めて動画サイトなどで探してみたけれど見つけられなかった)

 

私は疑問を感じた。

例えば、AKB48の『誰かのために ~What can I for someone?~』という楽曲には「愚かな戦争をニュースで見るより」という歌詞の一節がある。

果たして「政治」と無関係の「戦争」が人類史上、存在するのだろうか。

彼女ら自身がステージで「政治的」な楽曲を歌っているのだ。

これは彼女の件の発言と矛盾しないだろうか。

私は彼女を指弾したいわけではない。

このように問われた時、彼女はどのように答えるのだろうか、ということだ。

(繰り返すが、私の勘違いかもしれない。ただ、私がそのような印象を強く持ったのは確かだ。でも間違っていたら申し訳ない)

 

 

話を戻すと、結局、ファンの私財によって数値化され格付けされる状況に「包摂」されている彼女らメンバーよりも、わちゃわちゃと楽しんでいる彼女らを見ていることの方が私にカタルシスをもたらしていたのだろう。

 

問題意識を持ちつつも、他方でそんな彼女らに魅了されていたという「矛盾」が、私の中のある種のバランスをもたらしていたような気もする。考えてみると、それは後に好きになる楽曲にも繋がる感情だ。

 

そして48グループに対しては、私の中から表現者としての彼女らに対する「敬意」みたいなものが時間を経るにつれて失われていった感じがしている。

 

そんな「包摂」の状況もその理由のひとつだろうが、それは彼女ら個々人が原因なのではなく、彼女らをその状況へと駆り立てる、大きな枠組みに対する不信から来るものだ。

 

それはまず、極めて定番な「総合プロデューサー秋元康」へのそれに始まる。

 

 

PART3へ続く。