「おとなしい」。そうですか。それはそうと、どう思うんですか?

「おとなしい」。他者から私へのかなり早い段階の評価として選択され、非常に多く私に対して告げられてきた言葉だ。まぁ間違ってはいない。基本的にあまり発言しないし、身体行動も活発ではないし。もちろんそういう方はこの世にごまんといるであろう。しかし疑問としてあったのは、私に対してわざわざおそらくネガティブ寄りの意味合いでの「あなたはおとなしい」という評価を早々に告げてくる必要があるのかどうかということだ。

まず、これを私に告げてくるというのは、最初に相手が勝手に私に対して抱いた期待と実際の間に齟齬を感じ、そのことに対する期待外れの憂いが“早々に”当の私に対してぶつけられているということではないかと思っている。

この“早々に”という状況は、最初の期待の大きさの証ということではないだろうか。期待するのも期待外れと感じるのも個人の勝手ではあるが、この期待の大きさというのはどこからくるのか。

 

ここで私の見た目について言及しておくと、現代日本においては比較的高身長で中肉中背、まぁ顔の表情は豊かではない。

ファッションはというと、髪型はどちらかというと奇抜寄りなのかもしれない。私の髪型に関する詳細は書かないが、髪質に合わせて選択しているものなので、本当はやりたくてやっているわけではない。

 

また、服の趣味はというと、私が10代半ばごろから日本でも活発になってきていたと思われるストリートカルチャー、とりわけ当時の日本のインディーズシーンにおけるパンク、メロコア、ヒップホップやレゲエなどからの強い影響を受け、それを40歳現在もかなり引きずっている部分がある。こう言っては何だが、「オシャレ」なんて言われることがしばしばある感じなのだが、本当にそのように見えているならば、ハッキリ言って「そう見える」だけだ。もう今や服はほとんど買わないし、買ってもSALE品が多い。詳しい人が見れば確実に大したことは無い。あ、いやSALE品が悪いわけではない。たまたま売れ残った商品なだけだ。あと「当時を引きずる」なんて書いたが、少なくとも私と同年代の方で上記のような私と似た趣味の方は、基本的に皆さんオシャレだと思う。

 

まぁ何が言いたいのかといえば、私の見た目が「活発そう」であるのにも関わらず、全くそうではないということが私に対する最初の期待の大きさを生んでしまっているのではないかということだ。

 

若いころはこの「おとなしい」という評価に悩んだりもしたものだったが、現在はさほど気にはしていない。実際そのように言ってくる人もそれほど悪気があるわけではないことも分かっている。

しかし気にしなくなったのは何故なのだろうか。

おそらくそれは意識の方向性の変化なのではないかと考えた。

 

自らを取り巻く社会がどのように構成され、どのような問題が存在し、その中でひとりの現代人としてどのような意識を持つべきなのか。それに向けての具体的な行動を表せなかったとしても、どうあるべきなのか。そして、あらゆるものに関して、こうあるべきと単純に断定出来るものではなく、全ては不確実だという前提条件の中で自らはどのように生きて行くのか。

 

という現在の私の思いからすれば、他人からの「情緒のみに基づくレッテル張り」を気にするなど、さしたる問題ではなくなったのかもしれない。

 

そして上記のような思いは、極めて「政治的」なのである。いや、本来生きているだけで「政治的」なのだが。

 

私の経験上、「おとなしい」というレッテルを張り、私を少し軽んじてきた人間に対して、ある物事への「情理を踏まえた政治的な意見(自分ではそう思っている)」を表明してみると、そいつらは面食らい、対応に窮し、「立候補したら?」という返答に至ることが多い。

 

いや、あんたも有権者だろう。俺の意見についてどう思うのだ。政治を語る=立候補って発想、恥ずかしくないのか。我々の生活に直接かかわる制度設計とそれを実行する人間を選ぶのはあんたも含めた我々有権者なんですけど。

 

という思いを抱きつつ、私からのそいつへの冷めた目で何となく会話が終る。そしてそれ以来、そういう奴からの私への対応が多少なりとも変わることが多いのだ、というか私の方が変わったのかもしれないが。

 

政治的な話は「効く」ようである。特に日本ではそれが顕著のようだ。そもそも「効く」から話すんじゃないけれど。

 

…でもやっぱり「情緒のみに基づくレッテル張り」を気にしちゃってるんだなこれは。