いち「清掃員」が語る渡辺淳之介という人物

やはり48や坂道グループにおける秋元康の如く、BiSHにとっても同様の人物が存在する。

所属事務所『WACK』の社長、渡辺淳之介だ。

いろいろ総合した結果、個人的には好きではない人物である。

 

メディアにもたびたび出演してきている彼だが、まず『WACK合同オーディション』をもとにして、彼について思うところを記したい。

 

これには毎回、オーディションの候補者たちや、そこに参加する現役のWACK所属アーティストたち同様、渡辺をはじめスタッフたちも泊まり込みで臨んでいる。

 

候補者たちや現役アーティストは事あるごとに振るい落とされてゆき、その様子や食事中、寝る間なども含めて合宿の様子はニコニコ生放送で連日全て生配信されている。

 

全て生配信というだけでも異常だが、このオーディション合宿は言うならば、「渡辺淳之介封建社会」である。候補者の合宿中の審査に係る生殺与奪は全て彼が握っている。彼が絶対君主なのだ。

 

これは古くはテレビ東京系『ASAYAN』や48グループなどに見られる、「大人」が作る「小さな世界」で女性たちに「餌」をぶら下げ競争原理を煽り、そこで繰り広げられる模様を「商品化」して「消費」することを是とするかのような近年の日本のアイドル業界に準ずる構図であり、渡辺もそれを踏襲していることは隠していない。

 

そりゃあ実際のそれぞれの立場を考えれば、ある程度の「封建的」な構造は出来てしまうであろうが、合宿というかたちで作り上げた小さな社会でそれをより強調するかのように、彼は候補者や参加しているWACKメンバーたちを追い込み、疲弊させる。

 

そこで彼は何かと講釈を垂れつつ、候補者への、精神的に追い込むための圧迫面談や、ほぼ強制的なかたちの多大な身体的負荷、それらとバランスを取るためなのかは分からないが、時に「下ネタ」などで悪態をつくなどし、そのオーディション合宿の場を支配してゆき、またそれに取り込まれていく候補者たちの様子を強調する。

それは観ていて基本的に愉快なものではない。

 

しかし、“そういう”オーディション合宿であることは事前に候補者たちには伝えており(何せ毎年行われているものだ)、辞退も候補者に関しては基本的に自由だ。また、追い込む行為も演じているところも多分にある気はするし、追い込む相手も選んでやっているようにも見える。

 

合宿の参加者とスタッフの旅費食費宿泊費は全て事務所の持ち出しであって、もちろん慈善事業ではないし、このような企画を成立させること自体、容易いことではないだろう。

愉快ではない合宿中の候補者たちへのさまざまなアプローチも、エンターテインメント性を持たせるために試行錯誤している結果なのだろうとも想像している。

そもそも芸能界なんて、最も「正解」が無い世界のひとつだ。

彼自身、自分の方針やセンスに懐疑的になることも多々あるだろう。

 

しかし、彼はどこかで語っていた(と思う。記憶が定かではないが)。合宿などで見せるそういった行為によって、自分に批判を集めることで、所属アーティストである彼女らを守る目的もあるのだと。

 

また、彼女らにはユニークな芸名を付け、また年齢を公表させていない。

 

そこで名付ける芸名のユニークさは個人的に好きなのだが、そもそも芸名というものは芸能人のプライベートを守るという意味合いもあるのだなと改めて気付かされる。単なる格好付けではないのだろう。

 

また、年齢を公表させない点は特に賛同したい。

これがどういった方針によるものかは不明だが、そもそも各人の年齢をわざわざ公表する必要は無く、日本は特に女性に対する「若年至上主義」的傾向があると思うが、それに対するアンチテーゼにも思える。

 

ただ、芸能人の本名や実年齢など、個人情報を知ろうとしたり暴こうとする輩はどうしても一定数いる。一体何が楽しいのだろうか。

 

 

話を戻すと、また、彼は所属アーティストである彼女らに対して、自身が抱く思いをちゃんと言葉にするよう促す態度をよく見せたりもする。それと関連してなのか、作詞作曲や振付けなど楽曲制作に彼女らを参加させることが多い。

 

その内容の是非の最終決定権は基本的に彼が持っているだろうし、それらを外部発注した場合と比較した際のコスト面の利点もあるだろうが、彼女らのクリエイティビティを引き出すきっかけとなるその姿勢はファンが支持する理由のひとつとなっているだろう。

 

少なくとも秋元康などとはそういったところが大きく異なる。

もちろん様々な事情など私などが知る由もないが、秋元は現在ではメディアにはほとんど姿を見せず(?)にその存在感だけは維持し続け、態度としては「ものわかりの良い大人」を装ってきた印象だ。

 

そして彼が「総合プロデュース」しているメンバーたちには「やりたいことをやれ」と言いつつ、当人たちの楽曲制作への発言権は全くと言っていいほど認めていない。

「結果的」にそうなっている部分もあるかもしれないが、両者の「いやらしさ」の面で言うと個人的には秋元の方がその印象が強い。

 

方針の違いであり、どちらが正しいなどと言うつもりはない。

しかし、こうして両者を比較して考えてみると渡辺の方に賛同出来る部分が多いことが見えてくる。

 

他にも、渡辺の「優れたアーティストには金持ちであって欲しい」という思いのもと、WACK所属アーティストに対しての報酬設定は非常にクリーンで、給料制ではなく、各アーティストが上げた収益に対するアーティスト側の取り分の設定が、他事務所の同様の女性グループなどと比較するとかなり破格なのだそうだ。

 

こう考えると“そういう”合宿であることも、即戦力を求め、それに応えることが出来た者には相応の見返りを保証していることの示唆であるともとれる。

とはいえ、この合宿の様相を全面的に賛同するわけではないが。

 

 

また、個人的に彼の発言で印象的なものが、彼が業界の師と仰ぐ人物からの教えで、人生は「ギブアンドテイク」ではなく「ギブアンドギブアンドギブ」であり、そうすることで、いずれそれが回り回って自らに帰ってくるのだ、という話をしていたことである。

これはまさにマルセル・モースの『贈与論』で言うところの「反対給付」と同様のことであろう。

 

彼がオーディション合宿などの直接的な実入りが無いであろうことを多大な費用や手間を掛けても行うことも、「自らがそれを得たいならば、まず自らがそれを他者に与えよ」という考えに基づくものなのではないだろうか。

 

そもそも、私は積極的に客前に出てくる裏方が好きではないし、それでいて彼は高圧的でセクシスト、軽薄で人たらしのような語り口と「子ども」のような悪態をつく人物だが、音楽ビジネスに関してのメディアで語る信念などには賛同できることも多いのが実際のところだ。

 

ただ、事務所企画のもと制作されたドキュメンタリー映画『WHO KiLLED IDOL? ‐SiS消滅の詩‐』で見せた彼の様子にはひとまず違和感を禁じ得なかった。

 

2016年の件のオーディション合宿合格者たちで結成された「BiS」に対抗するかたちで、そこの最終選考に漏れた不合格者たちで「SiS」というグループを結成するも、そのSiSお披露目ライブ直後に解散するというエピソードがその主題だ。

 

しかし、その解散理由となったSiSプロデューサーの過去の背任行為が再燃したタイミングや、そもそもSiSの企画は渡辺発案で、過去の背任行為を知っていながらその人物をプロデューサーとして起用したのも渡辺である点などを考えると何かと疑念が生まれる。

 

そして、その背任行為の告白と共に解散したその場を後にする渡辺の口からは「これは映画になるんじゃない?」という発言と、かつそのシーンをわざわざ採用している点、最終的に元SiSメンバーを渡辺が自身のもとに受け入れた点などから、これは果たして単純にこの背任行為者だけが「原因」であったとして完結する作品なのかと懐疑的な印象を受ける。

 

特にエンターテインメント業界のドキュメンタリーは、見せ物として昇華するために脚色をするのが当然であって、全てを真に受けてはならないものであるが、ここで見せる渡辺の態度はそのことを嘲笑っているのか、それならばそれで別に良いと思うし、そもそも真実など実際はどこにあるのかも分からないのだが、どうにも渡辺に対する胡散臭い印象がこの映画により個人的に強まったのは事実だった。

 

また、この映画の中で渡辺自身も頭髪を刈り、「坊主」になることでSiS解散の責任を示すかのような態度を見せたが、彼はそのような前時代的な責任の取り方を是とする感覚を持っているのか、あるいはどうせ頭髪など数ヶ月もすれば元に戻るのだから、パフォーマンスとしてのひとまずの行為に過ぎないのか、あるいはその両方なのか。いずれにせよ、いわゆる「スベって」いないだろうかとは思えた。

 

WACKはその他にもいくつかドキュメンタリー形式の映画を作ってきているが、ともかくいずれも「渡辺淳之介の正当性を強調するような構図」に帰着させているところは、「推して知るべし」な印象だ。

個人的にはなかなか気持ちの悪い部分ではある。

 

また、WACKの社是(?)にもあるように、彼による所属アーティストである女性たちに向けての幼稚な下ネタは日常茶飯事である。

そこで発せられる下ネタの多くは悪質とまでは言えないのかもしれないが、しかしその根底には、男性優位社会での女性の自立には女性自身に「男性的思考」が必要、というような倒錯的論理の含意も感じられる。

演者は女性たちだが、この合宿を見ても明らかなように結局裏で主導しているのは「男」たちである。

「男社会的イデオロギー」の深刻さの問題は簡単には語れない。何せ私の「そこで発せられる下ネタの多くは悪質とまでは言えないのかもしれない」というのも「男目線」の意見である。

 

結局、こうやって彼をきっかけに思考していることも、彼の術中に陥っている証左の気もする。しかし、当の彼にはそんな意識も無く、その場その場の対応で結果的にそうなっているのだけなのかもしれないし、あるいはその両方であるというのが本当のところかもしれない。

 

 

ひとまず、秋元も同様だが渡辺が天才なのは間違いないだろう。

とはいえ、いかに成果を出そうとも、彼ら個々人だけが優れているのではなく、さまざまなタイミングが偶然折り重なった結果であり、おそらくほとんどのことは「機運」なのだ。

 

その「機運」から生まれ出る楽曲やライブはもちろんのことだが、合宿や映画などもこうやってブツクサ言いながら、結局私は「楽しんで」いるのだ。

 

本来、女性が追い込まれている姿を見て、「楽しむ」などとは、ろくでもないし語弊もある。

そうではなく、その意味は、特に(アイドル)グループとその指導者との関係性を考えた時、個人的には、指導者やそれを含めた社会に対するカウンター精神が私には欠かせなく、ほとんどの場合どうしてもそれは起きてしまうものなのであり、合宿や映画などについてのここでの「楽しむ」は、そういったカウンター精神をもとに巡らせる考えに価値を置いている、ということだ。

 

 

あと当初書いた、総合して彼のことが好きではない最も大きな理由というのは、おそらく彼の話し方と、ちょっと胡散臭いあの笑顔が、「普段は上位者に阿り、そして自身がトラブルを起こしても責任回避しようとする私の嫌いな知人」にそっくりだからだと思う。

まぁ、結局かなり個人的な事情だ。

懐かしくも新しい、BiSHという表現

BiSHが好きになり、YouTubeの関連動画を掘り出した。個人的事情だが何しろ時間はある。

MVや過去の出演番組などなど、多くのBiSH関係者、支持者や「清掃員」のおかげで大量の関連情報に容易にアクセスできる。良くも悪くも便利な時代だ。

再びテレビ朝日系『アメトーーク』の「BiSHどハマり芸人」の回も観てみた。「BiSHという言語」を獲得したいま、BiSHの魅力を伝道しようとする彼らとそれを共有出来たことで、改めて新たな世界へ立ち入ったことを実感した。それと同時にそこで放送された内容はまだまだ表面的なものに過ぎなかったことも分かった。まぁ、「短い時間でのキャッチーな表現」を是とする多くのメディアの性格ならば放送上は表面的にもなるだろう。

 

私がBiSHを好きになったのは2020年になってからなので、現在の彼女らに至るまでの紆余曲折の歴史は短い期間では把握しきれない。だから、いまだに何となく「清掃員」と名乗るに憚られる私ではあるのだが、現時点でのBiSHについての思いのたけを記していきたい欲求は増すばかりとなってしまった。

 

グループ立ち上げ当初などは特にそうだが、楽曲の調子やアレンジについては洋邦問わずトラディショナルなロックナンバーを踏襲していることが多いことは容易にわかる。そういった意味では、聴いていても個人的に「新鮮さ」に欠けている気もするのだが、そこはメンバー自身の魅力によって補われている。

まぁ別に新鮮でなくともよいのだが、これによって「懐かしくも新しい」という非常に受け入れやすく、かつ「傍に置きたい」感覚が立ち上がってくる。

メンバー各人についてなどはいずれ書くとして、ひとまず楽曲については、その歌詞に注目したのだ。

 

楽曲名などを含めて、おそらく過去の名曲などからの引用であろうものが散見される。ともすれば「パクり」なんて言われてしまうかもしれない(何せBiSHのファンクラブ名は「SMELLS LiKE TEEN SPiRiTS」だ)。

 

しかし、例えば学術論文などは出典元を記したうえで、様々な考察を重ねる。もちろん出展元を明かしている限りは「パクり」ではない。むしろ出展元が多いほどその論文の評価は上がる。

それと同様に、出展元=元の楽曲を分かりやすくしていることで作品の方向性が伝わりやすくなるし、なにより偉大な先人たちにより培われて来たロックミュージックの歴史を後世に伝えることを「アイドル性」を用いて達成しようとしたその先に、BiSHという「トラディショナルかつ前衛的(=懐かしくも新しい)」な表現があったのだろう。

だから「パクり」ではなく「オマージュ」、「インスパイア」の類いとなっている…ということにしておこう。

 

改めて歌詞については、他言語詞の直訳のような、いささか難解なものがいくつもある(最近は少なくなっている印象もあるが)。

個人的には難解な方が好きだ。そしてその難解への「正解」はあまり知りたくない。行間を読みたいというか、想像したいのだ。作詞者本人からの精緻な解説も必要としない。

本人が誰かにそれをたずねられて答えるのは、もちろん本人の自由だが、その際もおおよその気持ちぐらいで個人的にはよい。

 

これは作詞に限ったことではない。「芸術作品や表現は世に出した時点で受け取り手のものになる」というのは、多くのアーティストから聞かれる言葉だが、それは受け取り手ごとの多様な解釈によりその作品が世に拡がっていくものだという含意ではないだろうか。

 

もちろん難解でなくともそのことは同様なのだが、難解なほどその解釈の作業は楽しい。しかし一見、シンプルで直接的な表現であっても、その含意は実際のところは分からない。どちらにせよ、分からない前提でいたいのだ。

 

好きなBiSHの楽曲はいくつもあるが、私がまず最初に好きになったのは『My Landscape』だ。

全体を通してシンプルなコード進行の繰り返しという少ない条件の下で、ドラマチックに展開されていく曲調は洋楽のロックナンバー的な印象を受ける。洋楽的だから良いということではないが、ミディアムテンポでも非常にグルーヴ感が生まれているのはそのせいだと思う。

 

で、この歌詞がまた直訳的というか、一見なんのこっちゃ分からない。

山猫?ほっとくとどでかく次第にハローハローハローBAD?食らうといいでもそういかない?終わりです?ハメは外さない?

なんのこっちゃ分からないからワクワクする。

曲調や歌唱、振付けやライブ演出も相まってなおのことワクワクする楽曲なのだ。

 

で、この楽曲はあまり該当しないかと思うが、個人的な印象としてBiSHの歌詞には「PAST」、すなわち「過去」というフレーズが、多いとまでは言わないが、クローズアップされることがたびたびある。

 

BiSHの楽曲の作詞は、これまで所属事務所WACK代表の渡辺淳之介サウンドプロデューサーの松隈ケンタ、またはメンバーによりなされている。

それぞれの楽曲の作詞者は誰なのかは確かに注目したい点ではあるが、とはいえ歌詞の最終決定権者は渡辺だ(松隈も?)。彼が納得しない事にはそれらの楽曲が世に出ることは無いのが現状だろう。

 

それを考えると、何となく彼個人の中に「過去」というものへの悔恨や諦念みたいなものが強く存在していて、そのことが歌詞に反映されているのかもしれないなんて想像する。

 

そうでなくとも「逡巡」が感じ取れる歌詞がほとんどである。彼はただ前向きで明るいだけの歌詞にはそれほど価値は置かないのかもしれない。

 

当初はふざけた演出が多いグループだったようだが、現在となっては渡辺と松隈の両氏が抱く「音楽に対する敬意」にメンバーたちも同意し懸命に呼応しようとしている、そんな構図が根底に構築されていることが感じ取れる。もちろんメンバーたち自身がもとよりその器量を持ち合わせていたからこそそれが可能なのだろう。

 

渡辺は軽薄な印象の態度を取りがちだし、これまで人道にもとるというと言い過ぎだが、そういった方向性の演出もしてきた。

彼の実際の気持ちなど誰にも分からないだろうけれど、ただ、BiSHの楽曲の歌詞に触れているとそんな彼への信頼が少しは芽生えてくる気もするのだ。

という書き方をするのも、総合的には私自身は彼のことをあまり好まないからなのだけれど。

 

それについてはまた後日。

これがBiSH…ダサ…くないっ!

「楽器を持たないパンクバンド」。このキャッチコピーを初めて聞いたとき、率直に「ダサい」と思った。

「BiSH」。名前を耳にしたことはあった。

メンバーではアイナ・ジ・エンドという名前だけは認識していた。様々なアーティストとコラボレーションしていることを知っていたからだが、とはいえそれらの楽曲をちゃんと聴いたことがあったわけではなかった。

 

そしてあれは2019年終盤だったと記憶しているが、テレビ朝日系『アメトーーク』で「BiSHどハマり芸人」と謳い、BiSHファンを公言するお笑い芸人たちがその魅力を紹介する放送があった。私は近年、ほとんどテレビを視聴しなくなっており、バラエティ番組は尚更だったのだが、その放送回はなぜかたまたま視聴したのだ。

と、視聴したものの、多少変わったグループなのだな程度で、さほど関心を持つわけでもなかった。

 

何かを強く勧められると、それ自体が逆効果で、冷静になって気持ちが乗らないということはよくある。

ましてや「こういうの好きでしょ?」なんて決めつけられると、にわかには納得できないことの方が多い。

 

そんな私は当該「BiSHどハマり芸人」の回を観ていて、その感じが発動してしまい、どうも「冷笑側」にまわってしまった。あの番組は「何かに熱中する人間を冷笑する」ということも「笑い」として織り込んでいると思うが、それのことだ。

とはいえ、そこでBiSH本人たちが披露していた楽曲『BiSH -星が瞬く夜に-』の存在だけは記憶した。

 

そこから3、4ヶ月経過した2020年3月頃だっただろうか、日本でもCOVID-19問題がかなり本格化して、自宅にいることが多くなってきた。まぁ、それに加えてそもそも働いていないのだ、時間はある。

 

そんな時期、何となくYouTubeを開いていると、並ぶ動画のサムネイルの中に、avexのチャンネルか何かで全編無料視聴可能なBiSHの2度目の幕張ライブ(その時は2度目かどうかなど知る由も無かった)の動画を発見した。

「ああ、BiSHか、全編無料なんて太っ腹だな」と思い、何となしにクリック、見始めた。

 

数曲観た後に、パソコンの小さい画面ではなく、テレビの大きい画面へ映し変えた。

もっとよく観たかったのだ。

楽曲もメンバーもほとんど知らないのに、観ているとあっという間に時間が過ぎてゆく。

 

「日本におけるアイドル」として考えると少し風変わりな6名の女の子たちが幕張の広い会場のセンターステージで2時間以上出ずっぱり、歌唱力もさることながら、20曲以上歌い踊り、時に激しく、時に奇抜で、時に繊細で、時にポップである。

 

曲調自体は歪んだギターのリフが激しく鳴り続ける、パンクというかメロコア、ミクスチャーロックやグランジっぽい感じが多く、本来の自分好みのものがほとんどで、しかもこのライブは全編生バンドだ。迫力があり、説得力も出てくる。

 

そして、あっという間に時間が過ぎる理由も分かってきた。

それは、楽曲のほとんどは初めて聞くのだけれど、おそらくセットリストにストーリー性を感じるためだ。

また、振付けをはじめとした演出やメンバー各人のファッション性が絶大な視覚効果を生んでおり、それらもそのことに寄与しているのだろう。

 

いわゆる「アイドル」と差別化を図るかのように、彼女らは明らかにステージを主戦場とした「表現者たち」である。

やはり重要なのは、何はなくとも「楽曲」なのであり、そしてそれをいかに表現するか、再現するかなのだということを改めて彼女らは気付かせてくれる。

 

また感じることは、彼女らは「技術に依存していない」、「巧妙な粗さがある」ということだ。

それは歌唱力、身体の使い方など一定の技術があるからこそ可能なのだろう。

 

そのことにより生まれる良い意味での「隙」みたいなものが、大勢のファンにとっては彼女らを支持する、共にあろうとする理由となり、こういったライブで激しくも温かい空間が大きく渦を巻いて展開されているのではないかと思う。

 

「未熟さ」や「隙」なんていうのは日本における「アイドル(特に女性)」の特徴でもあるだろうけれど、多くのそれは「技術に依存しようとする」ことにより発生しているもののように感じる。

その場合の「技術に依存しようとする」感じは単なる「技術披露」を目的化しているだけで、私としては観ていても没入できない。

 

しかし彼女らは逆なのだ。技術に依存しようとしていないからこそ、そこで観ている者たちとの強固な一体感を作り出せるということを、もはや肌感覚で理解しているかのようである。

 

だから彼女らはやはり「アイドル」ではなくこのライブを観る限り、「アイドル性のあるアンチアイドル的アーティスト」だろう。

 

そして、近年、私は「集団のアイドル」のライブを頻繁に観ていたせいか、特定のメンバーが2時間以上出ずっぱりというものに驚いた。

だが忘れていた。だいたいのアーティストはライブ中、出ずっぱりだ。「集団のアイドル」のように、楽曲ごとに異なるメンバーが入れ替わり立ち替わりするライブの方が本来は少数派だ。

 

このライブでは途中に「コント」の時間があるとはいえ、彼女らは基本的にずっと歌いながら踊っているわけである。相当な体力も必要とするだろう。

また、このコントという「余談」を挿み、その後、閑話休題的に再び展開されていく演出はライブ全体にメリハリを生み、面白い。

 

また、私見だが少なくとも「アイドル」に限って言えば、世論はもとより、当のアイドルたち自身も「ルッキズム」に則った評価をする言説が多数だ。

長所を問われれば、「顔面偏差値」だの「スタイルがいい」だの「肌が白い」だのと答える、現代の一般的価値観における見目麗しさなどの「分かりやすさ」だけで評価する傾向に辟易していたところに、「楽曲」と「表現」に極めて重点を置き、それでいて「アイドル性」の高い彼女らの存在は、私にとってセンセーショナルなもの、かつ音楽の価値観の原点に回帰するきっかけとなったのだ。

 

そして、そういったものを全てひっくるめて、私はこのライブを観たことで、本来、表現者として一般的なルッキズムよりも前提とするべき意識や精神を彼女らに感じ、「敬意」を抱いたのである。

 

私の言っている「アイドル」たちが「楽曲」や「表現」を蔑ろにしているわけではないであろうし、その彼ら彼女らも心身をすり減らし、日々努力を重ねているのであろう。

もちろんそれぞれの方針の違いであって、「良し悪し」ではなく個人の「好み」の話である。

 

個人的には「分かりやすさ」や「性的対象物」としての視点での評価だけでは「敬意」を払えないということであり、「敬意」を持てなければどのような条件が備わっていようとも支持できないということだ。

 

 

「楽器を持たないパンクバンド」というキャッチコピーを改めて考えてみた。

私的解釈だが、「パンク」は概念であり、既存のものに囚われないということだ。「バンド」だって楽器を持とうが持つまいが、当事者が「バンド」であるといえば「バンド」なのだ。

 

というかその意味よりも、当初その言葉の雰囲気を軽視したというか、それこそ「BiSHどハマり芸人」を観た時のような冷笑的な考えに陥った過去の自分の浅薄さの象徴として私の中にそのキャッチコピーは刻み込まれたのである。

 

これが「沼」というやつなのだろう。なんか以前からチラチラ見えてて、ある時ちょっと行ってみて片足入れてみたら「あれ、何これ、なんか気持ちいい」って思ってそのまま入っていった感じである。

 

気付いたらamazonで「BiSH」と検索して「じゃあこれも、あ、これも」とポチポチやってしまっていた。

空しい「バラエティ番組」

テレビ、特にバラエティ番組がつまらない。もちろん全ての番組を観ているわけではない。

そもそも近年は一部を除きテレビ番組自体ほとんど観なくなった。

 

その理由を考え思い当たったのはまず、「定式化」してしまい、つまらないということだ。もっと言えば、その「定式」をいかに順守出来るか、あるいはどのように“出来ないか”ということの競い合いをするという「定式」である。

 

お笑いのボケの「方法」、ツッコミの「方法」、いわゆる食レポの「方法」などなど、はたまたそれを「学ぶ」だのなんだの。

そこで、こういう場合はこうするんだ、こう返答するんだ、これが「正解」だ、俳優として、ミュージシャンとして、お笑い芸人として、アイドルとして、「バラエティ番組的」に「正解」、「100点」、あるいは「大きく不正解」や「0点」であっても「バラエティ番組的」には「正解」だ、等々、本来は数値化出来ないものに「点数」というかたちでそれを求める。

 

また、お前にとっての「1番」は何だだの、A/B、YES/NO、賛成/反対、敵/味方、善/悪などでお前はどっちだだのと二者択一を迫るなどの語り口もいわゆる「バラエティ番組」ではよく散見される。

 

バラエティはvariety、つまり「多様性」ということである。果たしてこれらに「多様性」があると言えるだろうか。

 

そんな中でさらに、いわゆる「噛まない」、口ごもらない、短い時間でクリアカットに発言出来るなど、そういったことが「優れている」とされ、それに及ばない「テレビ的能力」の低い者や、あるいは弱い立場の者に対するツッコミと称したマウンティング、嘲笑、恫喝。

また、自らの無知や認識不足を覆い隠す目的の冷笑、虚無。

加えて、跋扈する「先輩後輩原理主義者」。「先輩」というだけで「無条件に敬え」的言説。

 

そして、芸能人たち(特に新人?)への「特技披露」の要求。それは、お前たちは「しゃべり」が面白くないのだから、「特技」でもやって間を埋めろと言わんばかりであるし、要求される立場の芸能人たちにも「特技」により「仕事=お金」がもらえるからと無理矢理に「特技」を作ろうとする傾向が見られることが多い。

 

以前、某アイドルグループのメンバーのひとりが、アイドルになる以前より落語が趣味なのだという発言をした時に、先輩メンバー(落語の知識無し)がそれを聞くや否や「じゃあ落語家を目指したら?」と答えたやり取りをどこかのメディアで観たことがあった。

 

この先輩メンバーに対しては、10代半ばにして、趣味については「お金」に変えるよう行動することが「利口」なのだと考えているように思えた。

 

落語の魅力を訊ねるなど知見を深めるのではなく、第一に落語家になることを提案する、つまり落語家という立場を確立することで、その方面からの利益が望めやすい、すなわちそれは「特技」は「お金」に変えるものだという発想に基づくものではないだろうかということだ。

 

もちろん、この落語好きのメンバー本人が落語関係の仕事を将来したいと思うことは自由である。

ただ、この先輩メンバーの発言から、それが落語に興味が無いが故のものであったとしても、なにかある種の芸能界の病みたいなものをその時に感じたのだ。

それは「ただ好きなだけ」ではダメで、「特技」に昇華しないと意味がないという強迫観念ではないだろうか。

もしかすると、それは芸能界に限らないことなのかもしれない。

 

多くのテレビメディアは、こういった「日本の(海外を知っているわけではないが)テレビバラエティ的原理」が、「合理的で面白く、正しく利口である」ことかのように吹聴してきた。

 

また、とりわけ若い女性アイドルなどに対しては、「その原理を強要するさま」自体が「面白い」のだと言わんばかりのアプローチも多い。このことは日本の若い女性に対する蔑視性を助長しているように感じる。

 

そして多くの視聴者もそれらを真に受け、同様の価値観を共有し、その視聴者たちはテレビに対してだけでなく、自身の日常生活や仕事などにもその「原理」を導入しだすのだ。

 

そんな「原理」を強要する者の多くは、番組側、視聴者側ともに、権力者やスポンサーなどの「社会的上位者至上主義者」であり、それらに忖度するのが大好きだ。というより、そのような態度を取る方が知的負荷の軽減が出来て「楽」なのであろう。番組側や芸能人にとっては、あわよくば、「お金」にも繋がる。

 

ただし、NHKの場合のスポンサーは、税金然とした受信料を支払っている「国民」のはずだ。その「主義者」たちにその意識はどれほどあるのだろうか。

 

もはや日本のバラエティ番組の多くは「多様性」の皮を被った「定式的で不寛容で女性蔑視的な金権的権威主義」なものに見える。

 

それでいてこの「偽の多様性」は、「夢」や「希望」や「絆」を語りがちだ。こんなものを信頼しているとしたら「思考停止」である。薄っぺらくて辟易とする。

 

確かに、何事も「定式化」出来れば、複雑に考えずに済んで生きやすいかもしれない。

また、「噛まず」に、端的に、流暢に話が出来ることは素晴らしいことだし、それが必要だという職業もいくつもあるだろう。

ある程度の金銭的合理性を勘定に入れないと、現代の都市生活を営むことが難しいことも確かだ。

 

しかし、本来ほとんどの物事は「定式化」が出来るほど単純ではないし、誰かに気持ちを伝えるときに最も重要なのはその内容のはずだ。そのためには上手く話せないことだってある。

 

また、金銭的合理性を重要視し過ぎて、「お金」への万能感、全能感により資本主義の傀儡のようになると、本質を見失う。「お金」は本来、サービスを交換するための流動価値しか持たないのだ。

 

そして、視聴者の多くは賃労働者であり、資本などから搾取される側なのにもかかわらず、どこか「使用者目線」、「管理者目線」となっている場合が多い気がする。

その結果、何か起きたときに視聴者の多くが非難するのは芸能人や著名人の個々人に対してとなる傾向にある。

それが特定の企業に対しての場合もあるが、なぜかその企業の規模が大きくなるほど、非難の声は小さくなっていくように感じる。

その対象が、国に対してとなるとさらにその声は聞こえてこないことが多い。

 

そもそも番組制作をはじめとした多くのテレビ局自身がそういった態度であり、先に書いたように視聴者側がその態度を「正しい」と真に受けた結果、そのようなことが起きていることではないだろうか。

 

それを裏付けるように、多くの視聴者はテレビ局のスポンサー(資本)への態度などを非常に理解し慮る。

日常的には資本に搾取されていることを甘受しつつ、視聴者としては個人に対して資本側のような「使用者目線」や「管理者目線」を持ち、何か事が起これば資本に阿る。

なんだかフラフラである。

 

さらに国に対しての非難はもはやタブーのような空気を多くの番組は作り出している。そのことも多くの視聴者は疑問に思わない。

スポンサーという観点からすれば、むしろ国のスポンサーは我々国民である。国のおかしな制度や態度、為政者の不正などはバラエティ番組でも嘲笑してやればいいのである。

 

日本は主権在民の国なのだから、個人を責めることよりもむしろ、その背景にあるもっと大きいものや自らの環境を作り上げている制度や社会に対して声を挙げる権利やその意味をこそ、視聴者やテレビ局は重要視するべきだ。そしてどちらかの態度が変われば、もう一方も変わるはずだ。

 

こう考えると、視聴者の意識を変えるには、やはり情報を発信しているテレビ局をはじめとした多くのメディア側がまずもって変わることが、民主制が蔑ろにされても、それが有耶無耶になるような事態を防ぐ近道であろう。

 

そしてバラエティ番組は、楽しさを演出することが主題であるにもかかわらず、そもそも出演している芸能人たち自身が本当に楽しんでいるのだろうかと感じるときも多々ある。

 

ただ、そこは芸能人たちも人間である。そうでなくてもそのように見せるのが仕事なのだろう。何かと特別視される芸能人と言えども、きっと「原理」や「慣例」や「抑圧」などの中でなんとか立ち回ろうとしているのだ。

 

 

このように書いてきたが、もちろんバラエティ番組に限ったことではない。報道番組や情報番組なども同様である。むしろそれらの方がもっと直接的に各情報にアクセスするので、視聴者への影響力は大きいかもしれない。

 

そして、私とて好きなテレビ番組はある。NHK Eテレの番組や、バラエティ番組ではないが特定のドラマ(近年は野木亜紀子脚本の作品は欠かさず観ている)など、良い番組だってたくさんある。

 

 

たまに観る機会があるだけだし、私自身にバイアスが掛かっているせいもあるかもしれないが、それにしてもテレビ番組としては最も観やすいはずの、「バラエティ番組」の多くがどうにもリズムや空気感が気持ち悪く、空しく楽しくないのだ。

 

マウンティング、嘲笑、恫喝するなら下位者へよりも、バカな上位者への方が遥かに面白い。

むしろあらゆる上位者は下位者から突き上げられることが使命であると思う。それが嫌なら、上位者はその立場を放棄すればいい。

 

そういったことに基づいたバラエティ番組ならばそんな空しさも解消されるだろうが、まぁそれでなくても、ひとまず先輩だの後輩だの関係無く、自由闊達さとクリエイティビティを持った番組が作られることをまずもって期待したい。

カラスに始まる、とあるラジオ局アナウンサーへの不快感

街にいるとカラスをよく見かける。年中見かけるんだったっけ?よく覚えていないが、そんなことは別にどうでもいい。

私はカラスを見かけると、いつもあることを思い出す。

 

『親父・熱愛(パッション)』という文化放送のラジオ番組がある。この番組は、伊東四朗吉田照美水谷加奈アナウンサーの3名が主な出演者だ。

その具体的な放送日や時期なども覚えていないが、この番組を聴いたある際のこの水谷加奈という文化放送アナウンサーの言を、カラスを見るたびに思い出すのだ。

 

彼女はカラスが「嫌い」なのだという。その理由は人間が出したゴミを荒らすなど、まぁよく聞く類いのものだ。私だって別にカラスは好きではない。真っ黒で、近づくと意外とデカくておっかない。人間を攻撃することがあることもよく知られている。ゴミを荒らされれば、いい気だってしない。「嫌い」という気持ちはわかる。

 

しかし、この時彼女は「嫌い」ということの他に、「いなくなっても何の問題も無いから、出来ればこの世からいなくなって欲しい」というようなことを強弁していた。

正確な文言は覚えていないが、おおよそは合っているはずだ。つまり言葉の通り、「人間に迷惑を掛ける不必要な存在だから、この世から消えた方が人間のため、少なくとも私はそう思う」という意味らしい。

 

もちろん彼女が特定の種族に対して、どのような意見を持とうが自由だ。

しかしちょっと待って欲しい。

繰り返すが、私もカラスは好きではない。

しかし「この世からいなくなれ」とは全く思わない。

例えば、私はゴキブリも苦手だが、関わり合いになりたくないだけで、「この世からいなくなれ」とは思わない。

 

彼女がカラスからどれほどの被害を受けたのかは知らないが、それにより「カラスという特定の種族の存在自体が不必要」だということとは繋がらない。

 

カラスの生態の自然界における役割云々とか、そんなことはどうでもいい。役に立っていようがいまいがどうでもいい。

 

この番組での彼女の発言は、カラスという鳥類の一種族は、「生態系の頂点に立つ人間様」に被害を及ぼすだけの悪であると決めつけ、その排除が正当であるという主張を、文化放送という大手民間ラジオ局のアナウンサー(なんたら次長という役職にも就いているらしい)という、国民市民が生活する上での重要な資源のひとつである公共の電波を利用して、国民市民に有益な情報を伝えることを任務とするはずの立場の人間が行っているということになる。

 

「あらゆる生態系の中で人間が一番優れていて偉い」、これは「無知で傲慢で未熟な子ども」の意見である。

もちろん彼女はそんな発言はしていない。しかしこの含意が無いと、カラスに対する件の主張は出てこないのではないだろうか。

 

そもそも人間たちは手前勝手に我が物顔で自然を破壊し、そこをコンクリートアスファルトなどで固め、野生動物たちの住処や餌場を奪ってきた。そしてその上で人間たちは自らの大量生産大量消費大量廃棄の残骸としての「ゴミ」を「人間たちが勝手に決めただけの所定の位置」に置く(捨てる)。

しかし、そんなことはカラスには関係ない。人間にとっては「ゴミ」でも、住処や餌場を追われた動物たちにとっては、自らの命を長らえるための「資源」だ。

 

私はここで環境保護などを声高に訴えるつもりはないが、そういった意味でも、ひとまずカラスが「ゴミ」を荒らすことについては、カラスを非難しない。

本来、人間の理屈を野生動物に強いるのも基本的には不可能だ。

その逆も然りで、例えばカラスが人間を攻撃することについてもカラス側の理屈がある。

おそらく自然災害と同様、そこに「悪意」は無い。いや、もしかするとある場合もあるのかもしれない。

コミュニケーションを取ることが極めて困難で、いかに人間側がカラスの真理を研究しても全て推測の域を出ない。

もちろん何についても、「悪意」が無ければ仕方ないというつもりは無いし、実際に被害にあって怪我でもすれば、頭に来るのも理解できる。

 

とはいえ、自己利益増大のために必要以上に自然を貪って野生動物の生活を毀損してきた人間側に、それらとの共存共生の方策を講じる責任があるのではないか。

それらと特に仲良くする必要は無い。ただ、互いの生活を出来るだけ脅かさずに済むような環境を構築する努力義務は人間側が負うべきであると思う。

 

彼女の件の主張の根源は、相互理解が困難な相手とはコミュニケーションを放棄し、「あいつらは自分に害しか及ぼさず気に入らない、だから排除が正当」という無知性で身勝手な暴論にしか私には聞こえない。

 

対象がカラスだったから矮小化されたようだが、私はその彼女の主張の奥底に優生思想と同質のものを感じ、そんなことを無邪気に強弁したことに釈然としなかったのだ。

 

また、コミュニケーションが容易でない相手とはコミュニケーションは取らないという態度こそ、コミュニケーション能力の欠如というものだろう。それが真の「コミュ障」ではないか。

 

共演者の吉田照美も、この主張に「それはカラスに対してちょっと酷いんじゃないか」といわゆるツッコミ的に軽く苦言を呈したが、彼女は一貫して自分は正しいとばかりの態度だった。

 

彼女については、同番組の他の回でも釈然としない意見を主張することがあった。

 

彼女が言うには、電車の中では、リュックを背負うのではなく体の前側に掛けるのが「ちゃんとした人」であり、彼女自身もそのようにしているというのだ。

ということは、彼女自身は自分のことを「ちゃんとした人」であるという前提でこのことを語っていることになる。

「ちゃんとした人」とは何だろうか?

おそらく「常識がある人」という意味なのだろうけれど、電車中でリュックをそのようにしているだけで、「常識がある人」と認定するのだろうか。

では、していない人はその一点だけで「非常識な人」と認定するのだろうか。

自己無謬と人類に関する性質の規定をかなり曖昧な論理をもとに強調するという浅はかさと幼稚さを公共の電波に乗せて垂れ流すアナウンサー。

もちろんそのことに怒りなど感じない。呆れを通り越して感心すらするのだ。

 

 

このように神経質にならずに、カラスの件も、この件もバラエティ番組的な冗談として流せばよいのかもしれないが、私には、少々ムキになった冗談ぽくも聞こえないその語り口と内容が、どうも看過出来ないのである。

 

 

またある時、日本の現副総理兼財務大臣麻生太郎のある発言について、番組内で吉田照美が苦言を呈した時(どの発言だったかは覚えていない。なんせ問題発言のオンパレードだ)、吉田は彼女に意見を求めた。

その時、言うに事欠いて彼女は、「言ったってしょうがない(意味が無い、何も変わらない)」と宣ったのだ。

 

私は耳を疑った。

 

繰り返すが(コピペです)、彼女は、文化放送という大手民間ラジオ局のアナウンサー(なんたら次長という役職にも就いているらしい)という、国民市民が生活する上での重要な資源のひとつである公共の電波を利用して、国民市民に有益な情報を伝えることを任務とするはずの立場の人間である。

 

その彼女が、暗にこの日本における「議会制民主主義」に対する諦念を漏らしたのである。

 

もちろん個人の意見は自由だし、近年は特にそのような気持ちに多くの国民市民がなる傾向にあるのかもしれない。仮に彼女がその立場によりジャーナリズムに基づいて、正式にそのように問題提起したのならば評価すべきだろうが、ただ何かボソッとつぶやいたに過ぎなかった印象だ。

 

代議制なのだから、議員を選ぶ権利を有するのは我々有権者だ。彼女だってその1人のはずだ。

もし国民の生活を脅かすような政策や振る舞いをする為政者がいるならば、有権者の手により選挙でその人物を落選させることが制度上は可能なのだ。

 

彼女のこの発言は、件の立場の人間の公然のものとしてはかなりお粗末であろう。

彼女のそんな返答に、吉田も「しょうがなくないだろう」と呆れ気味だった。

 

これらの件とは無関係に、最近は『親父・熱愛(パッション)』を聴く機会はあまり無くなってしまったが、現在でも好きなラジオ番組のひとつではある。

 

しかしともかく、この水谷加奈というアナウンサー、そこそこの役職にも就いていてキャリアだってあるはずなのだが、私の印象では件の立場の人間としてはどうも浅薄で稚拙なのだ。

 

これらは彼女の片言隻句をことさらに指弾しているようにも思えるかもしれないが、前後の文脈や彼女の番組内でのその他の発言や態度から考えた結果、どうしてもそういった印象を私は拭えなくなってしまったのだ。

 

だからと言って、私は別に彼女に番組を降板しろとかアナウンサーを辞めろとか、意見や考え方を変節しろとか、そんなことはこれっぽっちも思ってはいない。

 

ただ、カラスを街で見かけるたびに彼女の発言が頭を過り、またラジオを聴いていて、彼女の名前が出たり、その声が聴こえてくると、不快で何となく身構えてしまう、ただそれだけである。

生きるとはアンビバレント(PART13)  ~生きてりゃ大体は「ダサい」~

それは、NHK朝ドラ『あまちゃん』でのとあるシーンである。

共にアイドルになることを夢見ていた、のん(当時 能年玲奈)演じる主人公の天野アキと、橋本愛演じるその親友である足立ユイ。

しかし、とある事情でユイが挫折し、その夢を諦め投げやりになり、ユイはアキとの口論の中で、「アイドル」のことを「ダサい」と称してしまう。それに対してアキは「ダサいけど、楽しいから、(中略)ダサいぐらい何だよ、我慢しろよ!」と答える。

 

そうである。「アイドル」は「ダサい」のだ。

「アイドル」なのだから「大人」の言うことを聞け、笑顔で愛想を振りまけ、お前らは「商品」だ、このようなことを甘受するなど、本来「ダサい」以外のなにものでもない。

分からないけれど、おそらく現実の「アイドル」たち自身も「ダサい」ということは考量に入れているのではないだろうか。

 

そしておそらくファンたちの多くもそうである。「ダサい」ことをしている彼女らを受け入れ、熱中している自分自身の行為も「ダサい」と客観視しているのではないか。

48に関して言えば、例えば金権的と自認していながらも、選抜総選挙や握手会などに多額の私財を投じる愚かさ、「ダサさ」、そんなことはファンたちにも百も承知なのだ。

 

多くの「アイドル」の構造は、先にも書いたが、現代社会の縮図である。

実際の報酬や賃金体系などは置いておいて、関係性だけで言えば、「資本と労働者」、すなわち「使用者の下で、自身の労働力を商品として売り渡している」という状態の「アイドル」たちは、いわゆる「サラリーマン」と同様である。また前時代的な封建制の色の強さも見える。

これは多くのファンの日常的な環境と同様の状況であるはずだ(別に「サラリーマン」が悪いと言っているわけではない)。

 

それではなぜ、そんな見慣れたような光景に熱中するファンたちがいるのか。

 

自分たち同様、時間を拘束され、搾取を甘受している状況の中でもがく「アイドル」たちを観て、共感を得ることがある種のカタルシスとなっているということもあるだろうが、他方で、多くのファンが日常生活では確立出来ない「使用者」、「管理者」への欲求を満たすためであるとも取れる気がする。

 

それは各メディアなどで見せる、秋元康のような「使用者」たちやバラエティ番組で取られる「男目線」による態度を、ファンに限らずそれらを観る人々は無意識的にも模倣し、自分たちも「アイドル」たちに対してそういった態度を取ることが許容されていると「勘違い」しているかのように思えるということだ。

 

もちろんこれらのような、「勘違い」したファンの方が少数派である(と思いたい)。

私自身は少なくとも良識あるファンだ、などと言うつもりは毛頭無いが、やはりファンというにはあるまじき行動を取る者も一定数いることは事実である。

 

そんな「アイドル」たちへの態度の根底には、悪しき伝統として今なお続く「男社会」、「おっさん社会」の現状があり、上記のようにテレビなどの巨大なメディアを通じてその風潮が世間一般に長らく伝搬し、助長されてきた結果のひとつがそれだろう。

 

その対象は「アイドル」に限らず、主にバラエティ番組などで多く観られる、「若い女性は知識が浅薄で世間知らずな、日常的な生活力に欠ける存在」であると印象付け、それにより起こる(起こさせる)多少の失敗を指摘し、「ツッコミ」などと称して嘲笑するということが「面白い」と吹聴するような有りようには辟易する。

特に「女性アイドル」へのSNSの返信やネット配信番組などのコメント欄を見れば、その効果が絶大であることがよく分かる。

 

また、「アイドル」たちは「性的消費物」のような側面も付与されがちである。

まぁ水着だのなんだのでの表現をすれば、そうなるのは当然だろうし、それを「芸術」として見る向きもあるのだろうが、やはりどうしても「男目線」から始まるのである。

 

とりあえず、マンスプレイニングを含めたさまざまな現代社会の縮図を見たければ、「アイドル」はおすすめだ。

 

 

しかし…こんなにダサくて問題が多いのに、アキの言うように総じて「楽しい」のだ。

それにより心が豊かになり、満たされてしまう人々がたくさんいるのだ。

それがたまたま「アイドル」だっただけであり、映画、漫画、ドラマ、アニメ、スポーツ…などなど、それらに熱中することと何ら差は無い。それらに「ダサさ」だってあるだろうし、熱中の対象が複数の場合だってあるし、そこに優劣があるものでもない。

 

やはり「ダサいけど、楽しい。ダサいぐらい我慢しろよ」、『あまちゃん』でのアキのこのセリフは秀逸だと思う。さすがクドカン

 

 

ただ私個人としては、その「楽しさ」は彼女らへの「敬意」が無いと成立しないものだ。

それは、それこそ彼女らの「生身」を感じたときにその状況となる。いや、まず感じようとしないといけないのだ。

さまざまな問題を孕む「包摂」状態であっても、それらを込みで楽曲や方針などを自分なりに解釈したうえで、自身の好みに合致し、「敬意」が立ち上がって来た時に、「アイドル」と呼ばれる存在たちが表現するものを享受するに至る。

 

これらを簡便に言うと、特定の対象に対して、この部分はちょっとどうかと思うが、でも総合すると好きだヤバい楽しい、みたいな、それこそ「アンビバレント」な感じだ。

 

そして先に何度も書いたが、少なくとも私にとっては、日本の多くの「アイドル」の「構造」を考える上で、立ち上がってきてしまうカウンター精神もあるからこそ、そこまでの価値に達する。

この「カウンター精神」に始まるさまざまな問題意識は、私自身の自我を再確認するきっかけともなっているのだ。

 

 

当然、「アイドル」たち自身の実際の認識は各人それぞれだ。ファンたちの考えも各人それぞれだ。

また近年は「アイドル」といっても多種多様で一口には語れない。

「構造」に囚われず、「大人」の言うことを聞いているだけではない、主体的で自律的な「アイドル」もたくさんいるだろう。

アーティスト然としていて日本における従来の「アイドル」とは言えない「アイドル」のような人たちもいる。

 

ともかく、「アイドル」側、ファン側問わず、それぞれがそれぞれの方法で、自律や心身の平静を達成しようとしているに過ぎないのではないだろうか。

繰り返すが、その方法がたまたま「アイドル」だっただけである。度が過ぎる者もたまにいるが、それはまた別の話だ。

 

図らずも結果的に論じてしまっている。想定外だ。

 

もともとは「心が弱っている時にアイドルにハマりやすい」ということが自分自身に当てはまるかどうかという話だった。

弱っているかといわれればそんな気もするし、そうでもない気もする。というか弱っているっぽいこと、それこそ、そんな「ダサさ」を楽しんでいるところもあるのかもしれない。

分かるような分からないような。やっぱり「アンビバレント」ってことで。

 

了。

生きるとはアンビバレント(PART12)  ~「生身」を無視する期待の悪弊~

たとえ欅坂46が他の48や坂道と一線を画していて、それが現在の私の琴線に触れるものであっても、やはり秋元康に対する不信感は拭えない。これは矛盾しない。

 

何かへの信仰心がその何かの創設者や支配するものまで全てを信仰するとなると、それは一神教の神に対するそれのようなものである。

 

振り返ると、「アイドル的かわいさ信仰」、「笑顔信仰」、「スクールガール信仰」や「恋愛禁止の慣例」などを否定し、主体性や自律性を求めている自分自身がよく48グループを観て楽しめていたなと思う。

 

というか、楽しみつつも、それに対するカウンター精神が同居していることが私にとって重要なのだろう。

もっと言えば、そんな彼女らの中の誰でもいいから、その構造をぶち破って、「大人」が恐れおののくような状況が発出することを常に期待しているのかもしれない。

 

夢や希望などを謳いつつ、金権的構造の中で競争原理を煽り、少女たちを心身ともに疲弊させていく。

にもかかわらず、各メディアで見せる“総合プロデューサー 秋元康”の彼女らに対するその姿は、「自由にやりなさい。私は味方だよ。」というものであり、それによりそんな少女たちの人心を欺瞞的に掌握し、その構造の中に収斂していくのだ。

 

そして時折それに対するガス抜き的な楽曲や企画、あるいは欅坂46のような存在を発出させバランスをとろうとしているかのように見える。

 

そう、欅坂46を作った当初の目的は「ガス抜き」を担わせるものだったのではないかと思えるのだ。

 

「大人」たちが作る不浄な構造によって噴出され溜まっていく「ガス」、そこに風穴を開けさせる役割を担わせる存在を意図的に作り上げる。

それは、楽曲に込められた「メッセージ」とは裏腹に、所詮は当の彼女ら自身もその「構造」の中に「包摂」される「操り人形」のような状況であるという、やはり矛盾や欺瞞に満ちたものだ。

それがまさに楽曲『サイレントマジョリティー』を知った時の最初の印象である。

 

とはいえ、それを観た人々は、彼女らを通して発せられる「メッセージ」が、少なくとも日本の「アイドル」においては類例のほとんど無かったイデオロギーであったが故、賛否ありつつも魅了されていく。

この結果、この状況をまた「商品化」していく。

 

しかし、そのような「予定」も結果的にうまくはいかなかった。

その原因は一義的なものではないだろうが、その大きなひとつに「集団のアイドル」、あるいは「アイドル」そのものにおそらく不向きだった、稀に見る「天才」がその「予定」に「適応し過ぎ」てしまっていた状況にあったであろうことは無視できない。

その「天才」はまさに、その「構造」をぶち破る存在だった。だからこそ欅坂46は支持されたのだ。ファンは「大人」たちの制御の埒外にいたであろう、その「天才」にことあるごとに期待した。

 

先に、欅坂46はひときわ楽曲に駆動されたとは書いたが、それは、その「天才」の表現者としての「正しい」というか、「理想的」な行動の結果もたらされた状況であろう。

 

ただ、「天才」も生身の人間だ。活動を通してさまざまな事情も生まれてくる。

「天才」を追い込ませた理由のひとつに「期待」があったのならば、周囲やファンによるそれは時に罪深いものなのかもしれない。

 

「構造」云々以前に大前提として忘れてはいけないことは、生身の身体を持つ人間である彼女ら個々人がそこにいるということだ。彼女ら個々人を軽視したり侮ったりしてはいけない。その「構造」の中ではそのことが最も重要なことなのだ。

 

もし、「大人」たちがその彼女らの「生身」を考量に入れなければ、欅坂46もある意味では「成功」だったとの見解もあるのかもしれない。サイテーの見解だが。

 

(それにしても「」(カッコ)が多い…)

 

「構造」や「生身」を考えると、他方、とりあえず48に関しては、選抜総選挙がしばらく開催されていない現在の状況だけでも良いことだと思う。

しかし、その大きな「集金イベント」がないことは運営側には痛手だろうし、それに加えて昨今の情勢により様々なイベントも開催出来ない。現在はあのメンバーの人数の多さと構造は結果的にかなりのリスクとなってしまっているのではないだろうか。

 

あと、私には乃木坂46のことはよく分からない。あの人気も様々な偶然が重なったところによるものが大きいのであろうが、“楽曲ありき”の私にはあまり興味が惹かれない。ほとんど聴いたことがないのにこのように言うのもなんだが。

 

私自身はいわゆるメジャーなものしかその存在を認識していないが、現在は「アイドル」として活動している方々の人数は数えきれず、そのほとんどがまともに運営されず、「大人」による更なる醜悪な搾取構造が蔓延していると聞く(プロインタビュアー吉田豪 談)。

深刻なことだが、秋元康のようなメインストリームの「大人」たちが、「アイドルビジネス」という、「どうやら儲かりそうな感じがする構造」を可視化させてしまったことに、そういったことの大きな原因の一旦があるだろう。

 

秋元康に関してはそういう近年の「前科」が無く(もっと前は知らないが)、欅坂46だけやっていれば、個人的にはもう少しその存在を支持できたかもしれない。

 

とはいえ、そもそも不思議な文化である。日本の「アイドル」とは何なのだろう。

 

あ、一知半解な私にはそんなことを論じられない。不可能だ。

 

しかし、ここでふと思い出したとあるテレビドラマのシーンがあった。

 

PART13へ続く。