カラスに始まる、とあるラジオ局アナウンサーへの不快感

街にいるとカラスをよく見かける。年中見かけるんだったっけ?よく覚えていないが、そんなことは別にどうでもいい。

私はカラスを見かけると、いつもあることを思い出す。

 

『親父・熱愛(パッション)』という文化放送のラジオ番組がある。この番組は、伊東四朗吉田照美水谷加奈アナウンサーの3名が主な出演者だ。

その具体的な放送日や時期なども覚えていないが、この番組を聴いたある際のこの水谷加奈という文化放送アナウンサーの言を、カラスを見るたびに思い出すのだ。

 

彼女はカラスが「嫌い」なのだという。その理由は人間が出したゴミを荒らすなど、まぁよく聞く類いのものだ。私だって別にカラスは好きではない。真っ黒で、近づくと意外とデカくておっかない。人間を攻撃することがあることもよく知られている。ゴミを荒らされれば、いい気だってしない。「嫌い」という気持ちはわかる。

 

しかし、この時彼女は「嫌い」ということの他に、「いなくなっても何の問題も無いから、出来ればこの世からいなくなって欲しい」というようなことを強弁していた。

正確な文言は覚えていないが、おおよそは合っているはずだ。つまり言葉の通り、「人間に迷惑を掛ける不必要な存在だから、この世から消えた方が人間のため、少なくとも私はそう思う」という意味らしい。

 

もちろん彼女が特定の種族に対して、どのような意見を持とうが自由だ。

しかしちょっと待って欲しい。

繰り返すが、私もカラスは好きではない。

しかし「この世からいなくなれ」とは全く思わない。

例えば、私はゴキブリも苦手だが、関わり合いになりたくないだけで、「この世からいなくなれ」とは思わない。

 

彼女がカラスからどれほどの被害を受けたのかは知らないが、それにより「カラスという特定の種族の存在自体が不必要」だということとは繋がらない。

 

カラスの生態の自然界における役割云々とか、そんなことはどうでもいい。役に立っていようがいまいがどうでもいい。

 

この番組での彼女の発言は、カラスという鳥類の一種族は、「生態系の頂点に立つ人間様」に被害を及ぼすだけの悪であると決めつけ、その排除が正当であるという主張を、文化放送という大手民間ラジオ局のアナウンサー(なんたら次長という役職にも就いているらしい)という、国民市民が生活する上での重要な資源のひとつである公共の電波を利用して、国民市民に有益な情報を伝えることを任務とするはずの立場の人間が行っているということになる。

 

「あらゆる生態系の中で人間が一番優れていて偉い」、これは「無知で傲慢で未熟な子ども」の意見である。

もちろん彼女はそんな発言はしていない。しかしこの含意が無いと、カラスに対する件の主張は出てこないのではないだろうか。

 

そもそも人間たちは手前勝手に我が物顔で自然を破壊し、そこをコンクリートアスファルトなどで固め、野生動物たちの住処や餌場を奪ってきた。そしてその上で人間たちは自らの大量生産大量消費大量廃棄の残骸としての「ゴミ」を「人間たちが勝手に決めただけの所定の位置」に置く(捨てる)。

しかし、そんなことはカラスには関係ない。人間にとっては「ゴミ」でも、住処や餌場を追われた動物たちにとっては、自らの命を長らえるための「資源」だ。

 

私はここで環境保護などを声高に訴えるつもりはないが、そういった意味でも、ひとまずカラスが「ゴミ」を荒らすことについては、カラスを非難しない。

本来、人間の理屈を野生動物に強いるのも基本的には不可能だ。

その逆も然りで、例えばカラスが人間を攻撃することについてもカラス側の理屈がある。

おそらく自然災害と同様、そこに「悪意」は無い。いや、もしかするとある場合もあるのかもしれない。

コミュニケーションを取ることが極めて困難で、いかに人間側がカラスの真理を研究しても全て推測の域を出ない。

もちろん何についても、「悪意」が無ければ仕方ないというつもりは無いし、実際に被害にあって怪我でもすれば、頭に来るのも理解できる。

 

とはいえ、自己利益増大のために必要以上に自然を貪って野生動物の生活を毀損してきた人間側に、それらとの共存共生の方策を講じる責任があるのではないか。

それらと特に仲良くする必要は無い。ただ、互いの生活を出来るだけ脅かさずに済むような環境を構築する努力義務は人間側が負うべきであると思う。

 

彼女の件の主張の根源は、相互理解が困難な相手とはコミュニケーションを放棄し、「あいつらは自分に害しか及ぼさず気に入らない、だから排除が正当」という無知性で身勝手な暴論にしか私には聞こえない。

 

対象がカラスだったから矮小化されたようだが、私はその彼女の主張の奥底に優生思想と同質のものを感じ、そんなことを無邪気に強弁したことに釈然としなかったのだ。

 

また、コミュニケーションが容易でない相手とはコミュニケーションは取らないという態度こそ、コミュニケーション能力の欠如というものだろう。それが真の「コミュ障」ではないか。

 

共演者の吉田照美も、この主張に「それはカラスに対してちょっと酷いんじゃないか」といわゆるツッコミ的に軽く苦言を呈したが、彼女は一貫して自分は正しいとばかりの態度だった。

 

彼女については、同番組の他の回でも釈然としない意見を主張することがあった。

 

彼女が言うには、電車の中では、リュックを背負うのではなく体の前側に掛けるのが「ちゃんとした人」であり、彼女自身もそのようにしているというのだ。

ということは、彼女自身は自分のことを「ちゃんとした人」であるという前提でこのことを語っていることになる。

「ちゃんとした人」とは何だろうか?

おそらく「常識がある人」という意味なのだろうけれど、電車中でリュックをそのようにしているだけで、「常識がある人」と認定するのだろうか。

では、していない人はその一点だけで「非常識な人」と認定するのだろうか。

自己無謬と人類に関する性質の規定をかなり曖昧な論理をもとに強調するという浅はかさと幼稚さを公共の電波に乗せて垂れ流すアナウンサー。

もちろんそのことに怒りなど感じない。呆れを通り越して感心すらするのだ。

 

 

このように神経質にならずに、カラスの件も、この件もバラエティ番組的な冗談として流せばよいのかもしれないが、私には、少々ムキになった冗談ぽくも聞こえないその語り口と内容が、どうも看過出来ないのである。

 

 

またある時、日本の現副総理兼財務大臣麻生太郎のある発言について、番組内で吉田照美が苦言を呈した時(どの発言だったかは覚えていない。なんせ問題発言のオンパレードだ)、吉田は彼女に意見を求めた。

その時、言うに事欠いて彼女は、「言ったってしょうがない(意味が無い、何も変わらない)」と宣ったのだ。

 

私は耳を疑った。

 

繰り返すが(コピペです)、彼女は、文化放送という大手民間ラジオ局のアナウンサー(なんたら次長という役職にも就いているらしい)という、国民市民が生活する上での重要な資源のひとつである公共の電波を利用して、国民市民に有益な情報を伝えることを任務とするはずの立場の人間である。

 

その彼女が、暗にこの日本における「議会制民主主義」に対する諦念を漏らしたのである。

 

もちろん個人の意見は自由だし、近年は特にそのような気持ちに多くの国民市民がなる傾向にあるのかもしれない。仮に彼女がその立場によりジャーナリズムに基づいて、正式にそのように問題提起したのならば評価すべきだろうが、ただ何かボソッとつぶやいたに過ぎなかった印象だ。

 

代議制なのだから、議員を選ぶ権利を有するのは我々有権者だ。彼女だってその1人のはずだ。

もし国民の生活を脅かすような政策や振る舞いをする為政者がいるならば、有権者の手により選挙でその人物を落選させることが制度上は可能なのだ。

 

彼女のこの発言は、件の立場の人間の公然のものとしてはかなりお粗末であろう。

彼女のそんな返答に、吉田も「しょうがなくないだろう」と呆れ気味だった。

 

これらの件とは無関係に、最近は『親父・熱愛(パッション)』を聴く機会はあまり無くなってしまったが、現在でも好きなラジオ番組のひとつではある。

 

しかしともかく、この水谷加奈というアナウンサー、そこそこの役職にも就いていてキャリアだってあるはずなのだが、私の印象では件の立場の人間としてはどうも浅薄で稚拙なのだ。

 

これらは彼女の片言隻句をことさらに指弾しているようにも思えるかもしれないが、前後の文脈や彼女の番組内でのその他の発言や態度から考えた結果、どうしてもそういった印象を私は拭えなくなってしまったのだ。

 

だからと言って、私は別に彼女に番組を降板しろとかアナウンサーを辞めろとか、意見や考え方を変節しろとか、そんなことはこれっぽっちも思ってはいない。

 

ただ、カラスを街で見かけるたびに彼女の発言が頭を過り、またラジオを聴いていて、彼女の名前が出たり、その声が聴こえてくると、不快で何となく身構えてしまう、ただそれだけである。