中年の危機とスターの鬱(PART 4)

特に目を引いたのは『サブカル・スーパースター鬱伝』(吉田豪)での精神科医香山リカへのインタビューで出てきた、サブカル好きの人の「自意識過剰」傾向の話だ。

 

都市生活における多様な文化の中でニッチな趣味や感覚を持っている人の、社会的、商業的な成功とは関係の無い、生来(?)の「傷つきやすさ」、わかって欲しいけどわかって欲しくないみたいなアンビバレントな感情。「自意識過剰」というのはそれらに繋がるものであり、確かに本書に出てくる方々に共通するものである気がする。

 

また、本書を読んでその他に思ったことは、「鬱」というもの自体が、「身体からの警告への反応」というか、「防衛反応」なのではないかということだ。知識も無いのに下手なことは言えないが、この「反応」症状からカタルシスを得るための、各人それぞれのセックス、アイドルやアニメなどの方法があり、そしてまた症状が出て…という繰り返しなのではないか。

 

そしてこのように簡単にまとめることも出来ないことも分かっている。

非常に複雑であるし、これにも「正解」は無いのだろう。

 

というか、これらは自分自身にも当てはまるじゃないか。程度問題じゃないのか。

と、これもこう言ってしまえるほど単純ではないのだろう。

 

「自意識過剰」、これは私も自覚がある。自分の発言ひとつで誰かの考え方がガラッと変わってしまうんじゃないかと思ってしまうことはしばしばだ。以前、自分に期待していないなんて書いたが、嘘じゃないのか。たぶん傷つきやすいところもある。やっぱり他人の発言もかなり気にする。

他人にはなかなか言えないカタルシスに繋がる趣味的なものだって、そりゃあいろいろある。特定のアイドルが好きだったりもする。

 

というか、大抵の人がそうではないだろうか。

もちろんそうじゃない人もいるだろうが、実際にはあらゆることが他人事ではないのだ。「あなたは私であり、私はあなたなのだ」のようなフレーズをよく聞くが、その「当事者となる可能性」は誰しもがゼロではないのだ。世の中に起こるあらゆる自然災害、社会問題や個人レベルのトラブルに至るまで、その可能性は排除出来ないだろう。

 

本書中の香山へのインタビューで印象的だったのことのもう一つが、重大事件などへの最近の若者の意識について語られていた部分である。

例えば凄惨な少年犯罪について最近の若者は、「そういう犯人がいるのは怖い」など、被害当事者となる可能性は考えても、その犯人と自分自身との共通点みたいなものの可能性に意識的でないような印象を受けるという話だった。

 

私は映画『ジョーカー』を観たとき、「自分の中にもジョーカー的な素養があるのではないのか」という感想を持ったのだが、香山の言う最近の若者たちの傾向というのはこういう感想をあまり持たないということなのだろう。

私のこの感想は「自意識過剰」に繋がるものであろうが、と同時に「身体からの警告」でもあるのと思っている。

 

吉田は、この本書の主旨は自分自身も「鬱」になる可能性を鑑みたものであると語っている。

これも「当事者となる可能性」に焦点をあてたものであり、また「身体からの警告」を感じ取っているということではないだろうか。

 

本書や『猫舌SHOWROOM 「豪の部屋」』でも語られているが、40歳くらいになると、仕事についてもプライベートについても様々な「現実」を痛感する。

 

また、「サブカル」はその性質上、自己完結的になることが多く、それでより内省的になり、そこには自分の意識しかないから「自意識過剰」になる傾向が強いのかもしれない。

 

そして、改めて「ミドルエイジクライシス」という言葉だが、本書でも河合隼雄の『中年クライシス』という著作に少し触れる形で挙げられていた。購入直後に読んだ段階では、いかに何となく読み、自分事としてほとんど捉えていなかったのだと改めて思う。

 

「現実」は怖い。「当事者となる可能性」を考えることも怖い。それらに「自意識過剰」になるなら尚更だ。

だから、本書と当該番組でその身を削り表された先例を学んでおくのは有意義な事であるだろう。

ただし、学べるだけで「正解」は無い。学んで自分で考えて、それで自分なりの「正解」のようなものが出たとしても、それを過信せず疑ってみて…その繰り返しなのではないだろうか。

面倒だけれど、そういうものとうまく付き合って、緩やかに生きて行きたい。