中年の危機とスターの鬱(PART 3)

この吉田豪の著作『サブカル・スーパースター鬱伝』(以下、“本書”と表記)、購入した時のことは覚えていないが、単なる興味本位で当初はパラパラと読んで、「才能がある人は大変だな」程度の感想しかなかった記憶がある。

 

今回読み返してみても、やはり「鬱」に関する状況は各人毎にかなり違うことは明らかで、そこに1つの「正解」があるわけではないことが分かる。

 

「才能がある人」ということからすれば、本書で取り上げられている方々はやはり著名な方ばかりであることは確かだ。

そういった方々に対しては、サブカルチャーという、メインストリームに対するカウンター、つまり反体制的なものに(意識的にせよ無意識的にせよ)惹かれ、それをそれなりに謳歌していたところに、近代の肥大した資本主義のもとで自身が「商品化」され、単なる消費対象物として収斂されていくことへのジレンマから「鬱」となっていくというような流れを印象の1つとして持っていた。

 

例えば、カート・コバーンは自分の世代では「鬱」のミュージシャンの代表のような人物の1人だ。『資本主義リアリズム』(マーク・フィッシャー)には、ニルヴァーナのカート・コバーンに関する記述がある。

 

それを何となくまとめると、カート・コバーンですらも結局のところ、「コバーンがMTVを批判すれば、それだけMTVの視聴率も上がる」などという具合に、市場原理の下で「メインストリーム文化に対するアンチテーゼの代表」として利用され「商品化」され、それを本人も自覚していたといった内容だった。

 

そのあたりは、本書のみうらじゅんへのインタビューで、吉田がみうらのやっていることを「次々と新ネタを提供し続けなければいけないマイブーム業」と表現していたところに共通点があるだろう。

 

カート・コバーンは“27歳”で自死したが、それについて『資本主義リアリズム』の記述には、

「コバーンの死は、ロック・ミュージックが抱いたユートピアとプロメテウス的野心の敗北、そしてその消費文化への包摂を告げる決定的な瞬間だった」とある。

 

そして同書で「まるで初めてのように繰り返し続ける「オルタナティヴ文化」や「インディペンデント文化」」と表されていたところは、これは日本においてのサブカルチャーと置き換えることが出来るのではないだろうか。

そんな、あらゆるものが「商品化」される近代資本主義、市場原理、大量生産大量消費社会の中で、本書に登場した方々のように、どうにかこうにか割り切って(という表現が適しているのかは分からないが)、生を希求している(?)姿に私は価値を見出したいと本書を改めて読んで思った。

 

カート・コバーンは若かったし、彼のそもそもの「鬱」や自死の原因はもちろん私には分からない。

ただ、本書のテーマと通底する部分があるのではないかと思ったのだ。

そしてどのような場合でも自死に賛同は出来ない。しかし、そのことで当人を非難しないし、ましてや自己責任だなんて思わない。あらゆる物事が複雑である。

 

また、私はニルヴァーナが好きである。「凄まじい倦怠感と対象なき怒り(同書より)」を表現した、どこか頼りないのに強大なそのエネルギーは、私に新しい世界を見せてくれた。

 

上述してきたことは「才能がある人は大変」という当初の印象について字数を少し使って表現した形なだけだが、本書はそのことだけでは決して収まらないのだ。

 

PART4に続く。