中年の危機とスターの鬱(PART 2)

サブカルを通っている人間は40歳ぐらいで欝々とし出す傾向がある」というプロインタビュアー吉田豪の言。

サブカルサブカルチャー。おそらくこれまで数多論じられてきたものであろう。

メインに対してサブというカテゴライズ。定義は曖昧であろうし、公にカテゴライズされている時点でもはやサブではないだろう、なんてこともおそらく散々論じられているのではないだろうか。知らんけど。

 

ここでサブカルを論じることはしない、というか出来ない、知識もほぼないし。

なので、それについてはとりあえず脇に置く。

 

「ミドルエイジクライシス」に加えて、ともかく現在は「40歳ぐらいになると○○という傾向が見られる」なんて聞くと看過できないのだ。

何せ自分が現在40歳だ。

 

論語』の非常に有名な一節でも「子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩。」と孔子が言っていたと孔子の弟子が記している。ここに挙げられている年代それぞれが気になるところだが、ひとまずこの「四十而不惑」という箇所、ざっくりいうと、40歳になったら大抵のことには惑わされなくなる、みたいな注釈が日本ではポピュラーっぽい。

 

言わずもがなこれも数多の注釈があり、注釈者によって解釈がかなり違っていたりする。日本人では伊藤仁斎とか荻生徂徠などが特に有名なのだろうか。全く読んだことはないけれど。

中には、孔子自身がこの一節にあるような各年代の性質の通りとはいかなかったため、願望も込めてそのように語ったのではないかというような注釈もあるようである。

 

そんな中でも私が参考にしたいのは、能楽師の安田登が語る注釈である。

 

それは、40歳くらいになると「自分の人生はもうこんなもんだ」なんていう風に諦めてしまいがちになる、だからそういう気持ちに惑わされないように、「40歳は自分を惑わすものを切り捨て、さらに自分の可能性を拡げる年齢なのだ」という意味だというのである(参考:『すごい論語(安田登)』 ちなみにこの著作には安田登といとうせいこうの対談が採録されている)。

これには率直に勇気をもらった。変な言い方をすれば、私にとって「有用」な解釈だった。

 

もうみんな仕事が嫌なら辞めてしまえばいい、自分より若いなら尚更だ、もし仕事を辞めたいという人が目の前にいたら迷わず辞めることに賛成する。自分が無職だからというわけではなく、こういう気持ちはかなり若いころからある。

そして自分自身が40歳直前になってそれを体現することに対して、安田のこの説は「有用」で「都合が良かった」のだ。

 

じゃあそんな風に、仕事を辞めることに賛成して、その人が実際に辞めたとしてその責任を取れるのか?うーん、これに関しては取れない。辞める当人にも取れない。

そもそもどうして辞めたいのだろう?人それぞれだろうけれど、仕事を辞めることに限らず、物事の本当の因果なんて断定出来ないことの方が多い。自分が生まれる前に遡ってもおそらく分かりはしない。どれだけ時を遡ってもそうそう分かりはしない。原因が近代の社会システムにあって、じゃあそれはどうしてそんな構造になっているんだとか、そもそも人間というのは…、みたいに少なくとも私に関してはなってしまうのである。そうなると孔子にだって分かるかどうか疑わしい。

 

もう、そうしたいのならそうすればいい、自分が解放される方へ向かえばいい。少なくとも私はあなたを縛らない。でも縛って欲しい人もいるのかもしれない。やはり人間に対する「一義的な正解」なんてないのだ。

というか「正解が無い」ということ自体も疑いの対象だ。うん、やっぱり分からない。

 

話を戻して、改めて吉田豪の「サブカルを通っている人間は40歳ぐらいで欝々とし出す傾向があるようだ」の発言を考えたい。もちろんこれは彼の過去の様々な知見に基づくものだろうし、個人的にも彼は発言に信頼の置ける著名人の一人だと思っている。

 

やはり「サブカル」には何かあるのだろうか。

今回の『猫舌SHOWROOM 「豪の部屋」』では、吉田豪の件の発言と共に、自身の著作の『サブカル・スーパースター鬱伝』の名前が出た。

その時に思い出した。当該著作が私の部屋の本棚にあったことを。

 

PART3に続く。