占い師やってみた(2/3)
正式に鑑定師となり、対面鑑定を始めてみるといろいろ明らかになった。
まず自分自身の圧倒的な知識不足。これは勘定に入れていたつもりであったが、タロットカード大アルカナのみという私の手持ちリソースではやはりなかなかに厳しい。しかしこれはこれから更に勉強していけば補えるはずである。
次に、私は人と話すのが好きではなかったことを改めて思い出した。これは致命的に思えるかもしれないが、仕事と割り切れば実際それほど苦ではない。これまでの他の仕事でもそうだった。これは「慣れ」であろう。
そして最も重要な事は、客は「相談に来ているということ」であり、その多くが「深刻」であるということだ。
それは軽い気持ちで神社などのおみくじを引くなどというのはわけが違う。相談者である客の多くは対面鑑定に多少の勇気をもって、その場所にわざわざ足を運び、金銭(この占い会社の場合は主に1000円~、時間により異なる)を支払い、鑑定師に自らの悩みを打ち明け、それに対する一定の「答え」を求めに来る。
当然ながら、そういう方々の多くは「神秘性」に対する信頼が厚い。いわゆる「運命」とか、もともと自分の周りで起こることは決まっていて、それを自分が知らないだけであり、こうすればこうなるなど、その「答え」がどこかにあり、それが「占い」によって得られると思っている傾向の強い方がそこにやってくる場合が多いのだ。
もちろん、人によってそういった「占い好き」の傾向にも程度の差はある。占い結果を単に参考にするという程度の方もいるだろう。ただ、私のこの少ない経験上では、対面鑑定においては「気軽」に来ているという方はほとんど見受けられなかった。
私の場合、「あらゆる物事は不確実なものであり、明確な答えなど存在しないということを認識したうえで、様々な知見を参考にし、他者の協力も得ながら出来るだけ自分自身で考える」ということを「占い」によって相談者に促すことをその方針としていた。
私にとって「占い」はこの「知見」の1つに過ぎない。
当然だが、鑑定師は占いに対する一定の「知見」に基づき、占い結果を出している。基本的に鑑定師はその占い結果を伝えるだけである。とはいえ鑑定師ごとにその語り方は異なる。そこが鑑定師ごとの「差」なのだろう。
その状況で、相談者にその占い結果自体を「知見」の1つとして受け取ってもらうことが私にとっての望みであった。それは、その結果を断定事項ではなく可能性の1つとして受け取って、結局は相談者自身が考えることが重要だということである。
このことは、話せば大抵の人が理解を示す。「所詮は占い」だからだ。
大抵の「占い好き」の人だってそれは頭では分かっていることだろう。
しかし繰り返しになるが、対面鑑定に来る人の多くは、わざわざそこに足を運び、金銭を支払って、一定の「具体的な答え」を求めに来る。そうまでする「占い好き」の人たちの価値観と、私の方針はどうも馴染まないようなのだ。
言い方を変えれば、「占い好き」の多くの人からすると、そもそも私自身の持つ、「占い」に対する評価や価値観が角度で言えば135度ぐらい異なるようなのだ。
少なくとも私が対面鑑定で出会った相談者のほとんどに対してそのように感じた。
そして、私がこういった書き方をしているのは、実はそもそも「占いがあまり好きではない、あまり信じていない」のである。
そのことは占いを学びながらも自分自身で認識していたが、何とかなるだろうと高をくくっていた。この浅はかさに気が付いていなかったのだ。
この時点で鑑定師としてやっていくのはかなりの難有りであったのだろう。
私にとって「占い」は「単なる手段」に過ぎなかった。そもそも私は件の方針に加え、「占いを用いて占いへの依存性からの脱却」というようなトリッキーで大それたモットーのもとで占いを学んでいたのである。思想家の内田樹が言うところの「対米従属を通じての対米自立」みたいな。
「単なる手段」とはいえ、占いの社会的な役割に一定の価値を置いていることに偽りは無いし、ましてや対面鑑定に来る相談者を蔑んでいるわけでも決してない。
ただ、「好きではない、あまり信じていない」という根本的かつ最も重要な事について、対面鑑定の活動を始める前に、改めて自分自身に問い直してみるべきだった。
また、「答え」を求める人に「答えは無い」という前提条件を与えるのはなかなか難しい。表面的には何となく理解出来てもだ。
私がもし雄弁家であれば、もしかするとそういった方向性での鑑定師としての活動が可能だったのかもしれないが、何せ全くそのようなこともないので、それも土台無理な話なのである。
とどのつまり、能力が無い、好きでない、信じていない、ないない尽くしなのだ。
相談者には「今これは何を占ってるんですか?」あるいは「何言ってるか分からない」なんて早々に言われる。
雄弁でないうえに、私の占いでの語り方はマンスプレイニング的であったようにも思える(相談者は女性がほとんど)。深刻な相談者に申し訳がない。心が折れた、というよりもむしろスッキリしている自分がいた。悔しくもない。少なくとも今の自分には無理だ。そうして1ヶ月も経たないうちに私は鑑定師を辞めてしまったのだった。
次回に続く。