インテリぶって思いて学ばざる

無職、独身、40歳。「何でもないな、俺は」と、つとに思う。いや別に「何者」かになりたかったわけでもない。なりたかった「何者」かが過去にはあったのかもしれないが、いずれにせよ、「何者」かになるための「何か」をほとんどしてこなかったのだ。ただ、それほど後悔があるわけでもない。とは言え、前向きな思考形態を有しているわけでもない。無条件に前向きな人間など基本的に信用できない。いや、それは言い過ぎた。別に無条件に前向きであっても良い。むしろ羨ましい。嫌味でなく。「取り敢えずの前向き」を他者に押し付ける人間のことが嫌いなのだ。

 

それはさておき、本来この「無職、独身、一人暮らし、40歳」という状況はもっと憂慮し、焦り、ともすれば絶望しなければならないのかもしれない。私とて、一定のそういった気持ちを持ち合わせてはいる。そしてもちろん、この世にはもっと困難な状況にある方はごまんといるであろうことは想像に難くない。それこそ近代資本主義の「暴走」を背景に、様々な角度からの搾取の構造のただ中に多くの人が置かれ…あ、そういえば忘れていた、私が思う自分の嫌いなところが「何者でもなく、そもそも学も無いくせにインテリぶる」ことがちょこちょこあるところだということを。そして、この「インテリぶる」ところを自己認識しているところも「インテリぶっ」ている。そしてまた、この「インテリぶる」ところを自己認識しているところも「インテリぶっ」ている、ということを自己認識しているところも「インテリぶっ」ている、そしてまたまた……。キリがない。

 

というか前提として、「何者でもなく、学も無いくせに」という価値観はクソである。

学が無ければインテリジェンス持ち合わせているわけがないというのか、思いを吐露してはいけないのか、そもそも「学の有り無し」とは何なのだ、誰が規定するのだ、結局は私自身に内在する階級意識の表れだ、学歴コンプレックスだ、我ながら「ろくでもなさ」、「何でもなさ」ここに極まれりだ。

そして、この「~のくせに」というのは、ある一定の条件を満たしていなければ、特定の行動を行う有権者であってはならないということを個人が別の個人に対して規定するということだ。これは人による人の支配に繋がるものであろう。

ということは、ひとまず「~のくせに」の問題はそれが他者に向けられることだ。

『自省録(マルクス・アウレリウス)』だって、「自省」だからよいのだ。

誰かから上から目線で言われるのが一番腹立たしいのだ。

 

ていうか、「思いて学ばざ」ってるだけだ、私は。孔子センセー、そうですよね?

あ、「子」と「センセー」は同じだっけ?