BiSHのせいではないけれど

無職、独身、一人暮らし、40歳、男。

2019年9月末に前職を退職して以来、いわゆる賃労働は一切やっていない。

退職して以降、収入はゼロである。

 

さて、これからどうするか。どう生きて行くか。

とりあえず過去を振り返ってみて、駆られる思いに向き合ってみようと思った。

 

スポーツや芸術など、文化的なものに打ち込んできたわけでもなかった。部活だってまともにやったことはない。にもかかわらず、日本人の中では中途半端に身長が高いせいか、初対面の方からは「バスケやってましたか?」と聞かれることがほぼ毎度である。その度、「そのお前のバイアスの掛かった価値観はどうにかならへんのか。」という心の声を抱きながら、「いえ。スポーツも全然してきてません」と答える。そして「ああ、そうなのぉ?もったいない」という、毎度のクソ面倒なやりとりの末、「もったいない人間である」というレッテルを初対面で張られがちなのである。そして特段、音楽や絵などに明るいというわけでもない。

 

若い頃は手の付けられない不良で、器物破損、恐喝、暴行、傷害なんて日常茶飯事、などということも微塵も無い。かといって平和主義者というわけでもない。頭にくる奴は正面から、あるいはずれ違いざまに、または後ろからぶん殴ってきた、心の中で。悪道に一度は行ったけれど、そこから善道に戻ってきた人間の方が尊いのである、的な事をエーリッヒ・フロムが『悪について』で書いていた気がするが、悪にも善にも振れない。いやそもそも「悪」とは?「善」とは?少なからず誰もがその両方の性質を有しているのではないか。程度問題なのだ。

 

そして友人の人数も片手で数えられる程である。そして相手方からの連絡はほぼ無い。毎度、私からの発信である。時折メディア等で見かける、「友達いない」「友達少ない」発言をしている芸能人の、「これ、この前の誕生日に友達から貰ったんです」発言。こちとら大人になってから友人に誕生日プレゼントなんぞ貰ったことないわ。真の「友達いない」「友達少ない」を舐めんなよ。

 

と、こんな調子の私はこのまま行くと、家で孤独死していても恐らく1ヶ月以上は誰にも気付かれないであろう。定まった「組織」に所属していないということのリスクはやはり大きく、マズローせんせーが宣う「ゴダンカイヨッキュー」の何段目かのそれのあれなのであり、その欲求は人間が生存戦略のひとつとして内在しているものなのだろう。

 

こうして駆られた思いに少しだけ向き合った結果、こうなったら死ぬ前に思いのたけを残しておこうと、とある日の、BiSHを爆音で流しながらの入浴中に思い立ったのであった。