兵士、そして「歯」。 ――『日本軍兵士 ―アジア・太平洋戦争の現実』(吉田 裕 2017年)――

私は自分の「歯」の不具合を感じるたびに、思い出す著書がある。

『日本軍兵士 ―アジア・太平洋戦争の現実』(吉田 裕 2017年 中公新書)という、主に日中戦争からその後に拡がったアジア・太平洋戦争期の日本軍兵士が置かれた現状を記したものである(以下で挙げる記録は全て本書からのもの)。

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書) | 吉田 裕 |本 | 通販 | Amazon

 

本書の主たる観点として、先の大戦での日本人犠牲者は約310万人、そのうち戦闘による死亡ではない、「戦病死者」の数が甚大であったということがある。

 

日中戦争時の全戦没者に占める戦病死者は約50.4%であったという記録は残されているが、アジア・太平洋戦争期に関しては包括的な統計は残されていないようで(“日本政府お得意”の廃棄かしら?)、これについて著者は本文で「アジア・太平洋戦争日中戦争以上に過酷な状況のもとで戦われたことを考慮するならば、前者の戦病死の割合が後者のそれを下まわるとは、とうてい考えられない」と書いている。確かにそうであろう。

 

また、本書の大きな特徴としては、日本政府発表の記録よりも(先に書いたように、そもそもあまり残されていないのだろうけれど)、連合国側の記録及び、その現場にいた兵士ら自身が記した記録を中心に当該戦場の状況を紐解いている点が挙げられる。

 

例えば、日中戦争の中国戦線で戦った“とある一連隊”の日中戦争以降の「戦没者名簿」によれば、絶望的抗戦期(1944年8月~1945年8月)と呼ばれる、つまり、「ほぼ敗戦決定であるにもかかわらず、上意下達で強制的に踏ん張らせていた期間」に重なる1944年以降の全戦没者における戦病死者の割合は約73.5%であったという。

 

やはりおそらく、この期間の全戦没者には、その多くが「戦病死」であったという深刻な現実があったのだ。そして戦争が長期化するにしたがって戦病死者が増えていく傾向にあるようだ。

 

戦病死の原因自体は、アメーバ赤痢、細菌性赤痢マラリア結核などであったようだが、食糧に始まる兵站不足が極度の痩せ、食欲不振、栄養失調、貧血、慢性下痢、劣悪な衛生環境をもたらし、それらの悪疫に拍車をかける。

 

加えて戦場は極度の心身の過労が常態化している。そういったストレス、不安、緊張で拒食症となり、高度の栄養障害が起き、それは「戦争栄養失調症」と呼ばれた。

 

それらの結果、多くは「餓死」に至ったという。

 

悲惨かつ衝撃的である。この期間、日本軍兵士は戦闘によるものではなく、半数以上が戦場で病気になって死んでしまったのである。

 

加えて、軍内での「私的制裁」、すなわち士官や古参兵などの若い兵に対する「暴力」の常態化があった。

物理的暴力だけでなく、侮辱や屈辱などの精神的苦痛を与えることが好んでとられたのだそうだ。

そういったことによるストレスなどから「自殺」も多数起きる。「私的制裁」を行っている兵士の、それに対する言はというと、「強い兵士を作るために行ったことであり、それに耐えられない奴が悪い」といった、自殺の原因を個人に還元するものであったということである。

 

基本的に日本軍は、人員不足、物資不足、他国に劣る武器戦闘能力などの兵力の乏しさを「マッチョイズムで補って頑張れ、日本軍の意地を見せろ」という思想。だから、捕虜となることも「恥」。ほうっておくと、敵軍に捕まって捕虜になるかもしれない自国の傷病兵を殺害したりしていたそうだ。

かの有名な「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」どおりだ。

 

かつ、物資不足を補うため、「現地自活」という名目で中国民衆からの「略奪の推奨」も行っていたようであり、控えめに言っても総じて最悪である。

 

また、戦況が厳しくなってくると、とりあえず老兵や知的障碍者なども兵士として採用したり、15歳前後の少年兵もたくさんいたのだそうだ。

 

そして夫を戦争で亡くした「戦争未亡人」に対する日本陸軍の思想もなかなかのものである。

それは、「一度嫁いだら、夫以外の男はないから、妻たるもの主人と別れたならば、一生独身で暮らすことが日本の婦道であり、貞操上の理想」というものだったという。

現代もそういう考えの人はいるのだろうが、これを国が国民に要請するのである。おそらく宗教的な価値観に基づくものでも無いだろう。

なんなんだ、これも。バカなのか。

 

それらの詳細や、その他にもさまざま注目すべき記述はあるのだが、冒頭の「歯」の不具合時に本書を思い出すということについてである。

 

戦場という劣悪な環境では、兵士個人で口腔の衛生状態を管理することが難しく、「歯科治療」の問題はかなり深刻で、長期戦になればなおさらのようであった。

 

確かに「歯科治療」はかなり専門的な分野である。現代の一般的な日常生活においても、多くの人の悩みのひとつでもあるだろう。戦場で深刻になるのも頷ける。

個人的には戦場における「歯」のことは本書を読むまで考えたことが無かった。

 

このことは日中戦争で大きく露呈し、1940年3月に陸軍で歯科医将校制度、1941年に海軍軍医学校で歯科医科が設けられ、歯科医科士官制度が出来たが、実情はアジア・太平洋戦争期も日中戦争期とあまり変わらなかったとのことだ。

 

欧米諸国は第一次世界大戦の経験から戦場での歯科医療の重要性を認識し、対策を進めており、日本軍も一応はそういった欧米諸国の動きを認識していたにもかかわらず、日本軍での対策は遅れてしまっていた模様。

その際、連合軍も「日本陸軍は連合軍に比べて歯科治療の水準は劣っている」、「日本陸軍は連合軍ほど歯科の観点から部隊の健康に注意を払っていない」と結論づけているとのことだ。

 

近現代の日本政府はなぜ「対策」が遅れるのだろうか。様々な面で2020年に至る現在までもそのことは顕著である。

 

個人的に、この「歯科治療」に関する最も印象的な記述としては、1943年に現役兵として湘桂作戦に参加した兵士の証言で、「行軍中、歯磨きと洗顔は一度もしたことはなかった。万一虫歯で痛むときは患部にクレオソート丸(現在の正露丸)を潰して埋め込むか、自然に抜けるのを待つという荒療治」を行っていたというものである。

正露丸を潰して埋め込む。考えただけでかなり痛そうだ。そして素人でもわかる、おそらく絶対治らない。

 

例えば、田舎暮らしや南の島で暮らすこと、はたまた、もしも無人島でしばらく暮らすなんてことを夢想した場合、「医療」の問題はあまり考えないのではないか。仮に考えに及んだとしても、「歯科治療」はかなり盲点なのではないだろうか。ここしばらく歯科にかかっていない私などは特にそうだろう。

 

日常的に運動不足でも、生きていれば非常によく使う部位の1つのこの「歯」。

何か不具合があっても、ほっといたら治るというものでもないだろう(腐ってポロっと抜けたりすることもあるのか?しかし、それに至るまでには激烈な歯痛を伴うのではないか?)。

 

私は本書を読んで、戦場の凄惨さとともに、このように改めて「歯」の管理についての意識を持つに至ったのである。

 

学校の教科書に書かれているような「歴史」は、ほとんどが「権力者」が残した資料をもとに描かれている。

現代以降は、記録を残す手段は良くも悪くも容易かつ多分にあるだろうが、時代を遡るほどに「小さな声」はかき消されてゆく。

古今東西、戦争をはじめとして、人類の犯す罪の中で犠牲になった者たちの「声」を「権力者」たちは恣意的に取捨選択してきた。

だからこそ、あらゆる物事を単に歴史の1ページとして認識するのではなく、そこに携わる個々人がさらされて来た状況に対する視点を忘れてはならないのだ。

 

そして、飲んだくれて寝落ちして起きた瞬間に「あ、歯磨きせなあかん」と考えるようになった現在の我が身がここにある。

いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― アユニ・D編 ―  &まとめ

「アユニ・D」の加入当初からの変遷を見ていると、感慨深さと共に、若い「清掃員」などにとっては勇気や刺激が与えられるだろう。

彼女の表現者としての急進的なさまは目を見張るものがあるからだ。

 

それはもちろん、彼女自身の才能によるところもあるのだろうが、活動を通して与えられた環境や周囲からの刺激に対して彼女自身がそれほど拘りを持たずに、それらをまっすぐに正面から受け止め、応えようとしてきたことによるところが大きいのではないだろうか。

 

とはいえ実際、私がリンリンに対して抱いた印象同様、彼女に対しても具体的な「夢」とか「目標」といったものは設定せずに活動してきているのでないかという印象がある。

 

目前のスケジュールに向けての「目標」などはもちろんあるにしても、「○万人の前でライブしたい」とか「○○万枚売りたい」とか、そういったアーティストとしての社会的、商業的な成功としての「目標」や「夢」というよりは、誰かからの期待や求めに応えることに当初から最も価値を置いているように思えるのだ。

 

そんな彼女はグループの活動と並行してソロプロジェクトバンドのPEDROでベースボーカルと全曲作詞、時に作曲も担当するなど、BiSHメンバー随一の多忙さを極めていることは想像に難くなく、日々求められることも多いだろう。アーティストとしてのその先の「夢」みたいなものを考えている暇はもしかしたら無いとも言えるのかもしれない。

 

 

彼女の生み出す歌詞について、BiSHとPEDROで多い共通点としては、歌詞で設定された主人公の意識が次第に変化していくさまが感じられるところだ。

 

その変化のことをおそらく「成長」という言葉で表していいかと思うが、当初は頼りなく自暴自棄的だった主人公の意識が、歌詞の最後には少し光明を見出したかのように変化する様子が多くの歌詞で見て取れる。

決して「答え」を見出したのではなく、少しだけでも前に進めるような意識を手に入れた主人公がそこにはいる。

 

やはり大きな夢や目標というよりは、その時々の自分の足場を確かめ、一歩一歩自分の足で前に進み、出来るだけ精神的な「平静」を得て生きて行くことに価値を置く彼女の意思をそれらの歌詞から想像してしまうのだ。

 

また、モモコグミカンパニーと同じく、視覚的な効果を意識しているであろう歌詞の表記方法が多くみられる。そのこととも関連があるかのように、特にPEDROでその傾向が強いが、彼女の歌詞には彼女による「造語」が頻繁に登場する。

「存在忘形」、「好意行為」、「総意相違」、「自律神経出張中」、「センチメンタル暴動」、「ファンシー虚無主義者」等々…、“ググって”も出てこないであろう「言葉遊び」が散見される。

 

ほとんどの場合、日常的に使用している言葉というのは、先人たちから受け継ぎ、過去の経験の中で習得してきた、いわば「借り物」だ。自分自身の言葉で話していると思っていても、ほとんどがそんな「借り物の組み合わせ」に過ぎない。自分自身で全くのゼロから生み出す「言葉」はほとんど無いと言っていいだろう。

 

「借り物」を組み合わせざるを得ない条件下にあって、なるべく、“ググって”も辞書で調べても出てこない言葉で物事を表現し、かつそれらの視覚効果も意識する彼女も、かなり優れた「アーティスト」だろう。しかしそれはアイナ・ジ・エンドのような“根っから”というよりは「後発的」な感じはする。

 

そしてそれ以前に、「頭の中で描いたものに、既存の言葉を当てはめずに自分なりの名前を付ける」という性質の、彼女の「造語」は、学者などが行うようなかなりアカデミックなものだと言える。

 

「薄汚れた大人たち」はその場を取り繕うために、既存の言葉を用い、その意味を意図的に曲解するなどして重要なことを隠蔽しようとする。

時には、どうせ多くの日本人には分からないだろうからと、英語圏では通じないような英語的なフレーズで、事の本質を煙に巻こうとする日本の為政者もいる。

 

彼女の生み出す「造語」はそんな「大人」たちの心を、尖ったもので突くかのような力を持っているだろう。何しろ私自身がそんな風に突かれた感覚に陥るからそう思うのだ。

 

ただし、BiSHでの彼女の歌詞にはあまり「造語」は出てこない。それは彼女がBiSHとPEDROとで歌詞の「想定読者(聴者)」を変えているからなのではないだろうか。

PEDROの歌詞の場合は当然、基本的に彼女個人の意識を込める。だから彼女にとって分かりやすい「造語」をPEDROでは取り入れられるけれど、BiSHでは他のメンバーも歌うこととなり、「想定読者(聴者)」も変化し、「責任」の範疇も変わる。そういったことでBiSHではあまり「造語」を使用しないのかもしれない。

 

 

彼女は歌唱もかなり特徴的だ。現在では、当初のあどけなさとは異なるポップさと、アイナとは異なる尖鋭さを持っていて、なんだか真似したくなる。真似したくなる歌声というのは非常に貴重で、単なる技術では得られない才能だろう。

踊りも身体の使い方なのだろうか、しなやかで綺麗だ。見とれてしまう。

 

半ば強制的に始めさせられたPEDROでのベースボーカルも、歌いながら弾くというのは決して簡単なことではないはずだが、現在では「鬼の高速ダウンピッキング」で名うてのベーシストのようなバンドマンぶりが板に付いている。

 

色のついていない素朴だった少女が、現在ではあらゆるパフォーマンスが卓越し、時に「色気」すら帯びているように感じる。それは性的なものではなく、「人格的な色気」だ。

 

彼女は、気の毒になるほど「要求されるもの」が多いであろうし、影の努力も相当なものであることは想像に難くない。

パフォーマンス外のメディアなどでは、ポーカーフェイスで少しオドオドした様子を見せることが多い彼女は、そういった労苦の色もほとんど見せず、時折放たれる「末っ子的な可愛らしい邪気」で周囲に喜びを与える。

 

そんな彼女も“しれっと”カリスマティックなのだ。

同じグループのメンバーならば、嫉妬を通り越して、自慢したくなるメンバーだろう。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。

 

 

こうしてBiSHの各メンバーのことを書いてきたのだけれど、人気の理由とか、そんなことは正直全く分からない。まぁ別にそんなことは考えない。

商業的な成功の理由などというのは、おそらく後付けのことが多く、ひとまず、あらゆることが偶然の産物なのだろうと思う。正直、失敗より成功した時の方がその理由がよく分からないものだろう。

 

また、BiSHは「自由」だなんてよく言われる。当のメンバーであるモモコ自身も自著『目を合わせるということ』で「BiSHは自由である」と強調していた。

とはいえ、例えばメンバーが歌詞を書いたとて、そのリリースにあたっての最終的な可否決定の権限は彼女らには無いだろう。と考えれば、自らを自由であると語る彼女らだって、まず「小さな社会」で様々な制約を受けている。

 

特に日本では(海外を知っているわけではないが)、彼女らのように「大人により、寄せ集められた若い芸能グループ」では、その各メンバーへの裁量権はほぼ与えられていないだろう。

しかし、彼女ら自身に全ての裁量権が付与されていようといまいと、結局はそれよりもっと「大きな社会」から制約を受ける。それは倫理的、慣習的、法的、時には理不尽なかたちでの制約だ。

 

ただ、そういった制約のような「不自由」体験があるからこそ、「自由」を求める。

それはもちろん私たちも同様だ。そういった制約の中で逡巡や葛藤は避けては通れない。

 

長渕剛は自身の楽曲『STAY DREAM』で「尽きせぬ自由は がんじがらめの不自由さの中にある」と歌う。

 

BiSHのメンバーも結局は多くの「不自由」の中にあるはずだ。私はモモコの語る「自由」を否定したいわけではない。彼女がそう感じるなら、それは真実だろう。

 

だから重要なのは「自由の性質」なのだ。どのように「自由」なのか、そもそも全員が同条件下に見えても、各人によって「不自由」も「自由」も受け取り方は良くも悪くも様々だ。それらを作り上げているのは全員生身の人間なのだから。

 

BiSHには「生身」を感じる。おそらくそれは、彼女らが生きる上での逡巡や葛藤に対して誠実だからなのではないだろうか。

そして、それはそれまで私が観てきた「大人に寄せ集められた若者たちの芸能グループ」に対してはほとんど感じたことがなかったものだ。

 

BiSHは「生身」ゆえに、そこに「生きている」という生命力を感じる。

「生きる=ライブ」。

ライブにこそ彼女らの真価があるのもそういう理由なのかもしれない。

そして、それを感じ取ることが出来た「清掃員」たちも「生きて」いけるのである。

 

普通の女の子だった彼女らがBiSHとしての活動を通して「ヒーロー(ヒロイン)」になっていく。

「生身」を残したままの「ヒーロー(ヒロイン)」。まさに「改造人間」的である。

やはりBiSHは「仮面ライダー大集合」だ(というのはいささか強引なまとめな気もするが)。

 

 

了。

いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― リンリン編 ―

誰しも可能ならば、雄弁に自身の思いを他者に伝えたいと思うものだろうから、「無口担当」なんていうのは実のところ「リンリン」自身は不本意なのかもしれないけれど、個人的には、全く皮肉ではなく羨ましい「担当」だ。

文字通り喋らなくていいし、「担当」といっても実際その通りにしなきゃいけないわけでもないし、逆説的に発言に注目させる効果も生むだろうし。

 

でもそう担当付けてしまうと、本来そうでなくともそう振る舞わなくちゃいけないような強迫観念に囚われる可能性も高いだろうから、「肩書き」みたいなものも良かれ悪しかれである。

 

BiSHのメンバーの中でもひときわ特徴的な髪型、メイクやファッションなどで耳目を集めてきた彼女だが、「無口担当」になってしまったら、ひとまず容姿で他のメンバーと差をつける方に流れるのは当然だろう。

 

だから、彼女は結果的にそうなったというか、例えば「目標」であるとか「なりたい自分」みたいなものがあって、それを目指して活動してきているようには私にはあまり思えないのだ。後に書くが、それは決して悪い意味ではない。

 

そんな彼女の生み出す歌詞は内省的で救いを求めるような雰囲気がある。逡巡の中で居場所を探しているような、そんな感じだ。遠くに目線を向けているというよりは、その時その時で足場を探しているような印象を受ける内容だ。

 

アイナ・ジ・エンド同様、リンリンの歌詞もグランジっぽい。もし対比するならば、アイナは外向きだけれど、どこか欝々としていて、リンリンは内向きだけれど欝々とした印象は無く、流れのままに、といった印象だ。

 

基本的に具体的な状況を表す言葉選びなのだが、一般的にはサビなど、楽曲の中で一番強調されるであろう箇所では一転して、何だか曖昧な表現が飛び出してくる傾向が強い。

「とげとげ」、「きも(気持ち悪い)」、「あ゛ぁぁぁぁぁ」、「ファーストキッチンマイライフ」、「ゲロ」等々…最も「核」となる気持ちが発せられるのかと思われる状況になると、それを言語化出来ない、いや、「しない」のだ。

 

歌詞で最も強調すべきであろう部分を具体的でなく曖昧にする、転じて、そのことがまさに「無口」であるということなのではないだろうか。

だから、BiSHの「無口担当」とはメディア出演時などの振る舞いのことではなく、歌詞内容においてであるということなのだろう。

少し強引だが、そういうことにしておこう。

 

ただ、彼女の書く歌詞のような、内省的な逡巡は芸術には不可欠であり、「幸せ」だの「楽しい」だの、ただただ前向きな表現は表面的で薄っぺらく、そして知性も感じない。また、あまりに具体的なだけの表現は野暮ったい。

 

だからこそ彼女の生み出す歌詞は、BiSHの放つ表現が重層的足り得るための一翼を担っていると感じるのだ。

 

また、彼女もおそらく歌と踊りはそれほど得意ではないだろう。

だが、そんな彼女は、少女のような無垢な声とまっすぐな瞳で歌詞を噛みしめるように歌い、そして時折出てくる、「がなり」とシャウト。特に彼女の「がなり」は絶品であり、気持ちを高揚させる。

モモコグミカンパニー同様、「上手すぎない」、でもだからこそ「パンキッシュ」なのだ。

 

そして踊りでは、アイナが生み出す、彼女をフューチャーした前衛的な振付けを見事に再現する。それはおそらくリンリンにしか出来ないことだ。

 

 

極めて私見だけれど、彼女の歌詞からも感じるように、彼女は常に居場所を求めていた。そして手探りでそれを求めて歩を進めていき、その結果、現在の立ち位置を確立した。

 

そして、先にも書いたが、一般的には楽曲で最もその主張を強調しがちなサビで彼女が採用する、一見何だか分からない曖昧な言葉表現から考えても、それは、やはり「目標」や「目的地」であるとか「なりたい自分」とか「夢」など、そういったものを目指して日々活動していたというよりも、どこかにあるかもしれない居場所を流れのままに探して歩を進めた先に、たまたま今の状況があったということなのではないかと思えてくる。

 

最初から「目的地」があるのではなく、歩みを一つひとつ重ねていくことにより結果的にたまたま辿り着いたその場所から過去を振り返った時にはじめて、その過去の様々な物事に後から「意味」付けしていくなんていう構図は「偉人伝」や「伝記」みたいなものの定番である。

 

しかし、現代は先に「夢」や「目標」が無ければいけないかのように吹聴し、強制するかのようにそれらをひとまず決めさせる。そしてその結果ばかりを求め、その時々に行おうとすることに対して、行う前から「意味」付けしようとしてしまいがちである。

 

「そんなことやって何の意味があるんだ」、「そんなもの何の役に立つんだ」、現時点で「意味」が見出せないものには価値を置かない、それが「合理的で賢い」ことだと思ってしまいがちである。

 

しかし、あらゆる物事がこの先どう転ぶかなど誰にも分からない。誰しも生きていれば良くも悪くも不測の事態は起きる。そんな時にそれまで「合理的で賢い」と思っていたことが、大きな弊害や後悔を生む可能性は大いにある。ともすれば命に関わることだってあるかもしれない。

 

別に「夢」や「目標」が先に無くても、そんなものは後付けでどうとでもなる。その時々で自分の心に正直になって歩んでいってみると結果的に「居場所」が見つかったなんてことは往々にしてあることだ。

 

もちろん、「夢」や「目標」があるのは素晴らしいことだし、決してそのことを否定するつもりは無い。

 

しかし、私にとっては、BiSHで見る彼女の存在がそれらを「強制する」ことへのアンチテーゼにも思えてくるのである。

 

 

――次回はアユニ・Dについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。

いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― ハシヤスメ・アツコ編 ―

BiSHの中では、見た目としては最も飾り気の無いメンバーと言えるだろうが、そうであるが故に逆に異質にも思えるのが「ハシヤスメ・アツコ」だ。

 

もちろん人それぞれに承認欲求であるとか、お金が欲しいとか、少し口に出すのは憚られるような、「ゲスい」というと言い過ぎであろうが、そういう感情はあるとは思うが、彼女はBiSHのメンバーの中ではそういったことを比較的よく口に出す方だろう。

 

そのこともあり、めがねネタはともかく、個人的に彼女についてはBiSHの中の「影」の部分というか、俗人的な欲望の部分を引き受けているような印象を受けるのだ。

 

それが、いわゆる一定の「キャラクター」に準じているのか、彼女の元々の性格なのかはもちろん分からないが、彼女は組織で言うところの「裏の仕事」というか、「汚れ仕事」というとまた言い過ぎであろうが、そういう役を引き受けることで、他のメンバーのクリエイティビティを強調する効果をもたらしている気がするのだ。

 

ライブ中に必ずあるコントも、自身を「めんどくさい厄介者」として設定付けて展開するのが定番だ。このコントの脚本は彼女が考えているということで、やはりこのグループにおいては、自分自身を槍玉に上げることが最も適切なのだということを理解している故の設定だろう。

 

また、バラエティ番組などに出れば、そういった「めんどくささ」を「イジる」話法に持って行かれがちで(いくらか誇張されているにしても実話なのだろうが)、公的メディアでそれを喧伝すればそれを真に受ける視聴者も少なくない。

 

こういった方針は彼女にとっては本来不本意なもので、運営スタッフやTV側の要請に従っていることから始まっているのかもしれないことだが、実は大変重要なポジションなのだと思う。

 

それは偶然そのようになったのかもしれないし、あるいは意図的な部分もあるのかもしれない。いずれにせよ、一見分かり難いかたちで「バランス」をもたらしているのが彼女なのではないだろうか。

 

本来このような、グループ内で特定の人物にスケープゴート的なポジションを与えて、事を円滑に進めようという方針は、個人的に賛同出来ない。

その役が、例えば権力者、為政者や仕事での上司などなら、ある程度当然とも思えるが、もしもそれが友人や同僚などだとすれば、私なら申し訳なくて仕方がないし、それより下の立場の者に対してその役が付与されているのならば、それはあってはならないことだ。

 

だから、音楽グループのメンバーに過ぎない彼女がグループ内でひとり、そんな役を甘受しているのならば、謝意や敬意が生まれてくるというものだ。

 

まぁ私の買い被りなのかもしれないけれど。

 

 

彼女の生み出す歌詞には、ある物事に対するそこにいる主人公なりの一定の「正解」はあるけれど、その「正解」と現実との乖離に対するやりきれなさのようなものが表現されていると感じられる。

そう考えると、彼女自身の芯の強さというか、頑固さのようなものが感じられるが、一方で本当はもう少し異なる「キャラクター」で世に出ていきたいと考えているのかもしれないという印象もある。

 

そんな彼女のライブでの姿は、歌も踊りも総じて安定しており、かなりオールマイティーにこなすことが出来るメンバーだろう(素人目線ですよ)。

歌唱に関してはグループの中では最も耳馴染みが良いというか、いわゆる歌謡曲が合いそうな印象である。例えば高橋真梨子の楽曲などを歌っているのを聴いてみたい。

とはいえ、個人的に大好きなのは、『GiANT KiLLERS』のような激しい楽曲の開始直後に時折見られる、「清掃員」たちを煽るひときわ長いブレスの雄たけびだ。まだ行くか、まだ行くかと観ているとゾクゾクしてくる。

 

また、モモコグミカンパニーについて、メディア出演時の印象として、良い意味で「TVタレントぽくない」と書いたが、かたや彼女はというと、ひときわ「タレント然」としようとする。つまり、メディアに順応しようという気概を見せる。

 

特に「一般的なメディア対応」に不向きであろうメンバーが多い中においては、彼女のそんな姿勢は評価してもよいだろうが、とはいえ、実際それが上手くこなせるほど器用な方でもないようにも映る。

 

汚れ役を甘受(?)しつつ、TVタレントとしての自身を確立しようとしても、どこか不器用に映る彼女の「可愛げのある俗人」ぽさは(というと少し言葉は悪いが)、奇妙な集団であるBiSHの中ではうまく機能しているように思えるのだ。

 

 

BiSHもキャリアを重ねるごとに、「清掃員」を含めた周囲などからの「アーティストとしての期待値」は高まるばかりだろうと思う。それには本人たちも少なからずプレッシャーを感じたり、ジレンマに陥ったりすることもあるだろう。

 

しかし、ライブや各メディアでの彼女が引き受けた(?)「役」により、BiSHにそのように鬱積されるものにカタルシスがもたらされている部分があるであろうことは忘れてはならないのだ。そしてそれは彼女ら自身だけでなく、「清掃員」や周囲にとっても同様の効果があるのかもしれない。

 

繰り返すが、事の円滑化のためのスケープゴートやガス抜きのような立場を上位者以外に設定することに対しては賛同できない。

 

ただ、彼女がこういった「役」を引き受け、BiSHの中の「俗的」なものを吐き出すことで、それこそ「便通」が良くなり、そのことが現在に至る躍進をもたらしている理由のひとつである可能性を「清掃員」や周囲は決して捨ててはいけないのである。

 

 

――次回はリンリンについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。

いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― アイナ・ジ・エンド編 ―

BiSHの楽曲を聴いたとき、まず「アイナ・ジ・エンド」のエモーショナルに歪む、尖鋭的な歌唱に耳目が惹かれるのは分かりやすいところだ。

異性ながら憧れの歌声だ。あんな声で歌いたい。

あんな風にマイクの柄の真ん中より少し下の方を持ってこなれた感じでカラオケなどで歌いたい。

 

そのようなマイクの持ち方で歌う姿もそうだが、ステージ上での彼女は特に自身のパートとなると、「私はここにいるぞ、観てくれ」と言わんばかりに心地よい攻撃性を帯びる。その姿にシビれるのだ。

 

そして彼女の書く歌詞の主人公も、どこか頼りないのにもかかわらず、エネルギッシュで攻撃的である。グランジっぽいというか、それこそニルヴァーナっぽいとも言えるかもしれない。

最近はソロワークでのラブソングも印象的で、それらは薄幸が故の色気を放つような内容だ。

総じて、退廃的とまでは言わないが、どこか欝々とした印象の歌詞を書く。それは彼女の心理を表しているかのようでもある。

 

また、BiSHの楽曲の振付けのほとんどを担当しているのが彼女であるということもよく知られたところだ。どういったところから着想を得ているのだろうと思うような、いずれも非常に多彩な振付けである。

彼女本人が語るにはメンバーの日常的な仕草などからも取り入れたりもしているとのことである。

 

好きな振付けはたくさんあって、例えば『FOR HiM』は緩急があり、中でも彼女がひときわ躍動的に踊る姿により幻想的な印象を受ける。

 

また『stereo future』には全員が手をブルブルと震わせる振付けがあるが、これは彼女自身が日常的に手の震えが止まらない時期があり、それをそのまま振付けに採用したとのことである。少し心配にもなるエピソードだが、表現自体が彼女の心身を解放する手段となっているということではないだろうか。

 

他にも『DiSTANCE』の「笑顔貼り付けた」で顔の前で手のひらをかざしたら笑顔から真顔になる振付けなどは、天才的だと思う。何かからの引用だったとしても、これを発想するあたりは感心してしまう。

 

まだまだ魅力的な振付けはたくさんあるが、彼女の振付けで個人的に特に印象的な部分は、各メンバーのステージ上での力を引き出す効果を持っているところだ。

これを思うと、BiSHに限らず、振付けというものは演者に対する「ドーピング」のようなものに思えてくる。単に手順どおりにこなせれば良いというものではなく、演者自身もそのことを意識しなければ観ているものを魅了することは出来ないのだろう。

彼女の振付けを観ているとそんなことにも気付かせてくれるのだ。

 

 

そんな彼女は各メディアを通して見ていると、どこかアーティスト的なワーカホリックであるように思える。

 

もちろん仕事でやっているわけで、作詞とともに、考えなきゃいけない振付けがたくさんあり、その締め切りもあるだろうし、そうなると日常が「ネタ探し」だろう。日常、非日常も含めて経験する全てが「ネタ」になる、とも言える。

作詞のことを考えるとメンバー全員がそうなのかもしれないが、ほとんど全ての楽曲の振付けを彼女が生み出し続けてきているという状況は、メンバーの仕草や手の震えなどを振付けに取り入れている件も踏まえると、いわゆる「生みの苦しみ」が特に常態化しているメンバーなのではないかと想像してしまう。

 

加えて、彼女が生みだした振付けなのだから、彼女が他のメンバーに対してもレクチャーしなければならない。そうなると彼女の思い通りにならないことも多々生まれてくるだろう。

 

さらに歌唱のこともあるわけで、そりゃあワーカホリックにもなるだろうし、単に「振付けまで考えてるなんてスゴイね」なんて言葉だけで片付けてはいけないのではないだろうか。

彼女は常人には考えが及ばないようなことを常に行っているのである。

 

とはいえ、BiSHの冠ラジオ番組などで見せる(聴かせる)彼女は、「気さくで下ネタに敏感な大阪のおもろいねーちゃん」である。個人的には非常に親しみを感じる。

その一方で、アーティストとしての表現に関することについては、うって変わって知的な言葉選びでそれを語る印象がある。

彼女はあるところで「踊ることで鬱積するものを発散出来る。それは、踊ることには言葉が必要無いが故に、表現内容に責任が伴わないから」と語っていた。

個人的には興味深く、そして腹に落ちる表現だった。彼女は根っからの「アーティスト」なのだろう。

 

 

ところで、私は日本のアイドル界の「推しメン制度」に対して前向きではない。

「この中で誰が一番好きなの?」、まずこの発想がよく分からない。私が観ているのは楽曲でありパフォーマンスだ。それ言い出したら「全員が推しメン」だ。

そんなに生真面目になる必要はないのだろうが、楽曲のことでもなく、まず「誰が一番好きなのか」を訊ねてくる傾向は「アイドル蔑視」が根底にあるのではないかと思えてくるのだ(とはいえ、例に漏れずBiSHのメンバー自身も、それが彼女らの意思かどうかは分からないが、「清掃員」らに「推しメン」を訊ねがちなんだけれど、それはBiSHの楽曲、パフォーマンスが好きだという前提があるので別にいいのです)。

 

ただ、もしその「推しメン」を選ばなければならないとするならば、まず私は「推しメン」というものを、一番好きなメンバーというより(好きであることは確かだが)、そこに「神輿」があったとして、自分がその担ぎ手のひとりとなって、その神輿に乗せたいメンバーのことであると規定しようと思う。

 

それならばBiSHの中での私の「推しメン」は彼女、アイナ・ジ・エンドだ。

文字通り「神輿を担ぐ」、特に機嫌が良くなるようにおだてていきたい。

もちろんそれはおべんちゃらや太鼓持ちではなく、嘘偽りの無い言葉でだ。

 

私にとってアイナ・ジ・エンドは「推しメン」という概念を改めさせたメンバーでもあるのだ。

 

 

――次回はハシヤスメ・アツコについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。

いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― モモコグミカンパニー編 ―

BiSHのメンバーの中では、最も「TVタレント」ぽくないというか、例えばバラエティ番組などに出演していても、そこでの「原理」に流されないというか、言ってみれば「文化人」のような風体を「モモコグミカンパニー」には感じる。

 

このことが「文化人」的というわけではないだろうが、その際の彼女の言動には、そういう「原理」や視聴者を意識したものを感じない。そのことよりも、共演者とのやり取りや、企画自体をただ楽しんでいるかのように見える。

 

誰が決めたか知らない「バラエティ的原理」みたいなものに順応することが「利口」だなんていう風潮を個人的にはTVに感じているのだが、本来は彼女のように、そんな「原理」よりもそこでの企画を「楽しむ」姿(素振りであっても)を見せることが視聴者を楽しませることに繋がるのではないだろうか。

その「原理」に通じるであろう、やれ「撮れ高」だの「編集のしやすさ」だのといった制作側を慮るような語り口は、たとえそれが「ネタ」であっても、実際は視聴者を置いてきぼりにした行動なのだと思える。

 

そう考えると、そんな「TVタレント」ぽくないと思えるところが、翻って実は本来的な意味でメディアに必要な性質を備えているということなのかもしれない。

そういうこともあってなのか、BiSHのメンバーの誰かがひとりでTVなどメディアに出演するとなると、個人的には最も観たくなるのが彼女の出演する番組だ。

 

そんな印象がある彼女は、BiSHとして楽曲やライブに係る活動時もミュージシャン然とはせず、何となく彼女らを観ている者(多くは「清掃員」)と同じ「目線」に立とうとしているかのように見える。

 

そのことは彼女の生み出す歌詞にも表れているのではないだろうか。彼女の歌詞は多様だが、そういう「目線」が通底しているように感じる。

 

活動当初からそういった意識があったかどうかはもちろん分からないが、BiSHの活動を通して、あらゆる年代、性的趣向、生活環境の人々と同じ「目線」に立とうとしているかのようだ。

 

これは、先に書いた彼女のメディア出演時の印象とも通じるところがある。それは視聴者と同じ「目線」に立とうとしているかのようであるということだ。

 

また、それ自体が彼女のアイディアなのかどうかは分からないが、彼女は楽曲を「聴く」ということだけではなく、その歌詞の表記方法を、並ぶ文字群として「目視」するときのことも意識しているかたちを取っているような印象も受ける。

 

そして、彼女の著書『目を合わせるということ』の、その著書名にもそれらが表れているのかもしれない。

個人的には同著の中では「笑ってできた友達」の項が好きだ。まさに誰かと「目を合わせた時」の情景が浮かび、肩の力が抜けた良い文章だと思う。

 

ちなみに、私がBiSHを好きになったのが2020年に入ってからで、同著を購入したのは12刷のものだった。

重版を重ねているのは素晴らしいことなんだけれど、脱字などが結構あり、まぁ細かい誤りは別にいいんだけれど、192頁2列「延長戦上」は、おそらく「延長線上」の誤植だろう。これはかなり気になった。

12刷でここが修正されてないんかい。彼女のせいではないけれど。

 

話を戻して、BiSHの活動を観ていると、彼女はメンバーが「互いに“程良く”興味が無い」(私見)という中で、その均衡を保つ「バランサー」のようなポジションであるようにも見えてくる。

接する相手に緊張感を与えないであろう雰囲気も持ち、かつ全体のバランスをとる、彼女のような役目を果たす人物は組織においてはかなり重要な存在だろう。

 

また、件の『アメトーーク』では、グループの中では「唯一の人間」なんて評されていたが、同著は彼女自身のそんな人間的な「普通さ」もかなり意識しているものだろう。

 

彼女はおそらく踊りも歌も得意ではない。

しかし、ステージ上でピョンピョン跳ねる姿などは非常に可愛らしく、そこに技術などは関係無い(と思う)。

またテーマが深刻な楽曲での情緒的な振付けなどで見せる表情は何となく「普通さを演じている」かのように私には映る。それはもちろん悪い意味ではなく、それにより、彼女は「清掃員」たちのもとに降りてきて、彼や彼女らと同じ「目線」となることが出来るのだ。それはBiSHにおいては彼女にしか出来ないことではないだろうか。

 

そして、比較するわけではないが、私はBiSHの歌唱の中で彼女の歌声が特に好きだ。彼女の低音気味で飾らない、「上手すぎない」歌声は言ってしまえばグループの中では最も「パンキッシュ」に思える。

「パンクは上手すぎたらパンクではない(いとうせいこう談)」のだ。

 

例えばフランク・シナトラ『マイウェイ』のシド・ヴィシャスによるカバーは、それこそ歌や演奏は「上手くない」が、彼自身をそのまま表現している、歴史に残る名音源である。まず、その企画設定自体が秀逸だ。

 

あらゆる人と同じ「目線」に立とうとし、「普通」を「マイウェイ」にしている彼女にもぜひこの楽曲をカバーしてみて欲しい。

 

 

――次回はアイナ・ジ・エンドについて。

 

※断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。

いち「清掃員」が語る6つの瞬く星たち  ― セントチヒロ・チッチ編 ―

BiSHのメンバーは、例えるなら「仮面ライダー大集合」みたいな感じだろうか。そんな風に私には見える。仮面ライダーに詳しいわけではないが、知り得る限りで具体的に例えるとこんな感じだろうか。

 

セントチヒロ・チッチ → 仮面ライダーV3

モモコグミカンパニー → 仮面ライダースーパー1

アイナ・ジ・エンド → 仮面ライダーBLACK RX

ハシヤスメ・アツコ → 仮面ライダーストロンガー

リンリン → 仮面ライダーアマゾン

アユニ・D → 仮面ライダー龍騎

 

…チョイスがオールドスクール

仮面ライダーに詳しいわけではないし、加えて近年のものは全く知識が無いので仕方ない。完全に見た目の雰囲気だ。

 

 

私見だけれど、彼女らは大事なところは助け合いつつ、普段は互いに「“程良く”興味が無い」感じがあって良い。

芸能グループに限らず、人間関係は本来それぐらいがちょうど良いと思うのだが、特にTVメディアは「仲の良さ確認」を頻繁に行ってくる。

 

個人的に最も嫌いなのが、女性アイドルグループに対して多い、「本当は仲悪いんでしょ?」っていう定型アプローチである。

話を展開するためのきっかけであることは分かるが、あれは「女性同士は腹の中では基本的にいがみ合っている」という女性蔑視的思想に基づくものであろう。

 

ところで、アイドルグループが自己紹介する時などに非常によく聞くフレーズとして、「メンバー全員個性がバラバラで、そんな人たちが一緒に活動出来ているのが凄いし魅力です」的なものがある。

これを聞くと毎度思う。まぁそうだろう、みんな生物としては別個体だもの、と。

 

特定の人たちと同じ組織体に所属し、目的や意識、時間などを共有して活動していれば、人となりも分かり合い、仲間意識なども芽生えて、縁故主義的にもなるであろうことは想像に難くない。

まぁ、全くそうでない場合も往々にしてあるだろうが。

 

「人は自分の知っているものを過大評価する」、というのは思想家の内田樹の言葉である。

 

この「知っているものを過大評価する」というのは、そういったグループのメンバー当人たちに限らず、誰しも自分の好きな個人や作品などに対する気持ちを考えた時に実感することなのではないかと思う。

 

自分の仲の良い家族やペット(ペットも家族か)、友人、恋人、または好きな映画、ドラマ、音楽、芸能人、漫画、アニメ等々…それらの「自分が好きで知っているもの」は、それらを知らない他人が自分と同様にそれらを知れば、なぜかその他人もそれらを好きになるんじゃないかと思いがちだ。

 

「こんなに素晴らしいのに…この魅力が分からないなんてセンスが無いな」ぐらいに思ってみたり、逆にそんな好きなものを自分だけで独占したくなったり、あるいは自分の配偶者や恋人のことを好きなあまり、自分以外の周囲からもその配偶者や恋人が好意を寄せられているんじゃないかと“勘違い”してみたり…。

 

とはいえ、自分の愛する人の個性や組織体への「過大評価」や「勘違い」は、自身の存在証明であり、生存の糧でもある。

だから、「知っているものを過大評価する」傾向を非難したいわけではない。それに、そんな傾向はBiSHのメンバー自身においても各メディアで見られる。

 

そして少なくとも現在の私にとっても、おそらく「過大評価」しているであろうもののひとつがBiSHなのだ。

 

というわけでその前提で、いち「清掃員」として、BiSHの各メンバーのことについて記していきたい。

 

――まずはセントチヒロ・チッチから。

 

 

名声を手にするにつれて、社会性を要求されていくのは世の常だと思うが、BiSHとて例外ではない。彼女らは少なくとも現在のWACK所属のグループでは最もそういう立場に置かれた存在だろう。

 

各メディアで見る限り、そんなBiSHのメンバーの中でも、最もその社会性を引き受けている存在なのでないかと感じるのが「セントチヒロ・チッチ」、彼女だ。

 

それが意識的なのか無意識的なのかは分からないし、それを彼女に押し付けるわけではないが、そうである限り彼女の、ひいてはBiSHの社会性や信頼性が担保される気がする。

 

ひと言で彼女を称するとすれば、「組織の規律よりも社会性、倫理性を優先する軍人」みたいな感じだろうか。映画『ヒトラーの忘れ物』の主人公、ラスムスン軍曹のようである、というと言い過ぎかもしれないが。

 

BiSHの歌唱は、特徴的な声質などもありアイナ・ジ・エンドがまず耳目を惹きがちだが、チッチのそれもかなり卓抜したものを感じさせる。むしろ楽曲の土台ともいえるのではないだろうか。

 

素人感覚ではあるが、伸びやかなその歌唱は、例えばゲームなどでラスボスを倒した直後に、荒廃していた大地にブワーッと美しい自然が再生されていくような、そんな風景を想起させる歌声なのだ。少なくとも私にとっては。

 

また彼女がパフォーマンス中に見せる踊りは、どんな振付けであっても、ダンサー的なそれではなく、「武道の達人」のような身体使いなのだ。

まぁ、私に武道の経験は無いので、全く違うのかもしれないけれど。

 

同じグループならば非常に頼りになるボーカリストパフォーマーであり、他のグループならば憧れの対象というか、ともすれば自分も努力すれば彼女のようになれるかもしれないと思わせてくれる存在なのではないだろうか。

しかし、実際はそう簡単にはいかない。才能に加えて陰で努力もしているであろうし、事も無げにやっているように見えて、実は相当な実力者なのだ。

 

また、彼女が生み出す歌詞は聴いた者に救いを与えようとしているかのような印象を受ける。

イヤならイヤと言っていい、悔しいなら悔しいと言っていい、叫びたいなら叫べばいい、私が受け止めてやる。そんな感じだ。

 

彼女に対しては、件の社会性にも通じることだが、「受け止める」印象が個人的には強い。

ライブで彼女のパフォーマンスを観ていると、「清掃員」たちが放つ力を受け止めて、その力を彼女が増幅させ、その場全体へ解き放っているかような印象を受けるのだ。

 

それこそ武道のひとつの合気道のように、相対する対象(=「清掃員」たち)の力を利用してパフォーマンスを展開する。だからこそ目の前にその相手たちがいるライブでこそ彼女の力は最も発揮される。

 

そしてそれらは、生み出す歌詞にも込められているであろう、彼女の根底にある音楽への価値観、信頼や敬意が表れた結果なのだろう。

 

また、彼女の泰然自若とした様子は、「大人」たちの心を見透かしているかような雰囲気を持っている。

そのせいなのか、普通にしていて「顔が怖い」なんて茶化されたりすることもある彼女だが、それは茶化す者の臆病さの表れだろう。

しかしそんな言葉たちも彼女は「うるせーな」と一蹴しつつ、一旦「受け止める」。そして必要に応じてさらっと「流す」。これもどこか「武道的」だ。

 

まぁあんまり酷い言葉は受け止めもしないだろうけれど。というか受け止める必要は無い。彼女に限らずそれこそ右から左へ受け流してしまえそんなものは。

 

武道の本質は、相手を打ち倒すための戦闘能力を高めることではなく、心身を修練し己の生命力を高めることである(極めて請け売りです)。

 

このことは「組織の規律よりも社会性、倫理性を優先する軍人」である彼女と通底するものがあるだろう。少し大げさだが。

 

そんなこんなでリーダー的(実際、ある出来事で“元”リーダーなのだが)な印象の彼女は、牽引とか先導というより、受け止めて、次へのきっかけをドンと置いてくれる感じなのだ。

 

加えて名前の「チッチ」という語感と音感が絶妙だと思う。本人の本名由来のニックネームなのだそうだが、呼びたくなってしまう名前だ。

 

語感音感が可愛らしく絶妙な名前を持ち、「武道的」な彼女は、各メディアでの物事の語り方も落ち着いていて、それは忙しない現代社会へのアンチテーゼにも思えてくる。

 

彼女のことを既に大変な人格者であるかのように書いてしまっているが、「武道」である限り、彼女の修行は際限なく続いていく。いつまでも「発展途上」なのだ。

 

彼女は何だか「カリスマティック」だ。しかもそれとなく「“しれっと”カリスマティック」なのだ。

 

 

――次回はモモコグミカンパニーについて。

 

 

断っておくが、私はBiSHとしての彼女ら個々人の分析や、その答え合わせしたいわけではない。

勝手に感じたことを独り言のように記しているだけだ。